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東京校 一色 彩さん(38歳 女性)
『他人と過去は変えられない』
これは、全講座を通して私の心に一番強く印象に残った言葉です。
そして、頭ではなく、心で受け止める事に大きな「勇気」と「時間」を必要とした言葉でもあります。 なぜなら、この一節を受け入れることは、今まで生きてきた人生を、今を、そして未来を、全て「他人(ヒト)のせいにすることができなくなるから」です。自分の未熟さを認めざるを得ないからです。 過去を取り戻すことはできません。自分と同じ人は、この世に存在しません。だから、今の自分に「言い訳」ができなくなり、逃げ道が無くなってしまうのです。厳しい現実に立ち、一歩も二歩も、今より強い自分に成長しなくてはならないのです。
我が家は両親が飲食店を営んでおり、殆ど家にいませんでした。幼い頃から4歳下の妹とお留守番の毎日です。夜になると淋しくて妹は泣き叫びます。あやしていると、私も切なくなって「あと何分したら帰ってくるの?」と母に何度も電話を入れていました。 仕事(父)と子供の板挟みで、母はどんなに辛い思いをしたことでしょう・・・。 深夜0時近くやっと帰った母は、休む間もなく父の夜食作りに、洗濯にと忙しそうです。 父は、いつも酔っていましたが、「お留守番、ありがとう」「みんな愛しているよ」と言ってくれました。今思えば、この言葉が安心させてくれて、幼い私の心の大きな支えになっていた気がします。
でも、飲み過ぎると同じ愚痴を延々と繰り返す、イヤなお酒でした。嫌気をさす母に父は腹を立て、言い争いになり、母は小さい少女の様に泣き叫ぶのです。その母の姿に父は余計に苛立ち、手を挙げるのでした。包丁を持ち出し、母に向けることもありました。この時が一番恐かったです。
楽しい事、嬉しい事、沢山あったはずなのに、人は辛い記憶ばかりが残りやすいのかもしれません。このままでは「お母さんが死んでしまうかもしれない」私は不安でベッドの中でよく泣いていました。 父は、お酒を飲んでない時は、とても優しい人です。そんな父を嫌いになんかなれません。むしろ「大好き」でした。 でも、お酒で別人になってしまう父が恐いのです。恐くて、母を守ることもできず、きっと何か苦しい思いをしている父の事も幼かった私は助けてあげることができませんでした。
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大阪校 船橋 信弘さん(34歳 男性)
「今年の桜はたぶん見られると思う」
それは昨年(2005年)の年末年始、東京八王子の実家に戻ったときのこと。 年も明けて、大阪に帰る日も近づいたころ、父がぽつりとつぶやいた。
僕の母は9年前、進行性の乳がんにかかり、一旦は手術で取り除いたものの、術後 6年が経過した2003年には首への転移が見つかり、今や全身がんで侵されていた。
「今年の桜・・?」一瞬意味がわからなかった。 今年は見れる、ということは来年は?桜は見れても、梅雨のアジサイや夏のひまわりはもう見れない・・・
つまりはあと4ヶ月か5ヶ月かということだ。
既に1月から、大阪19期の研究コースに進むことが決まっていた。 何かに打ち込むことが少なかった自分にとっては、研究の多彩なカリキュラムは魅力的で、心理カウンセラーという肩書きにも正直魅かれた。
だが、突然の母の余命宣告を受けて、僕の中で研究に進むことの意味がガラリと変わった。
「本当に身近な人とコミュニケーションが取れるようになりたい」
僕の切実な願いであった。
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東京校 長島 光明さん(46歳 男性)
確かに人生が変わったと思います。 もし、日本メンタルヘルス協会の心理学講座に出会わなければ、今とはきっと違った人生を歩んでいたことでしょう。一見、その違いは分からないかもしれません。でも、人とのふれあいや家族との絆、心のゆとりなど、人間の内面が今とは大きく違っていたはずです。
もともと、精神的に強さをもっている自分だから、数々の課題や壁も乗り越えては来たと思います。でもそれは、「力」と「意志」で乗り越えただけであって、決して消化したわけではなく、ましてや「このトラブルがあって、むしろよかったんだ」と円満に受け入れられたとは、とても思えません。この違いはこれからの人生において計り知れない差を生むでしょう。
「ひどいこと言ってごめんね。本当は好きだったんだよ。 友達になりたかったんだ。」
小学校6年生の娘のクラスにひとりの女の子がいます。俗に言えば“問題児”“いじめっ子”。言葉の暴力でクラス中を誹謗中傷します。もともと性格が強いため、その影響力は大きく、彼女の気分にクラスの雰囲気が左右されるくらい。 そして、その女の子と娘の席が隣同士。娘は、彼女の言葉に打ちのめされて学校から帰ると、怒りを弟や妹にぶつけたり、落ち込んだり、「学校に行きたくない」と言い出したり・・・。 しかし、今回はどうしてもその女の子のことを憎めませんでした。むしろ、なんとかもっと素敵な関係になれないものかと思っていたくらいです。
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アトピーの原因は、母からの愛情もらいたかったから─ |
大阪校 吉田 奈緒美さん(34歳 女性)
メンタルと出会って、そして通い始めてちょうど一年が経とうとしています。 基礎コースに通い始めた頃は、まさか自分が研究コースに進み、そして一年後こんな気持ちでレポートを書いているとは思ってもみませんでした。
メンタルに出会うまでの私は、家族はいるのが当たり前、ご飯も食べられるのが当たり前、仕事があるのも当たり前、もちろん生きていること自体までも当たり前と全てのことは当たり前だと思い、感謝なんて全くしていませんでした。
それが、30年間私にとって”諸悪の根源”といっても過言ではなかったアトピー性皮膚炎によって、色々なことに気付かせてもらうことになるなんて、そして全てのことに感謝できるようになるなんて・・・本当に人生って何が起こるかわからないなあと改めて思っています。
私は幼い頃からアトピー性皮膚炎を患っていました。 アトピーのせいで我慢してきたこともたくさんありますし、小学校の頃はアトピーが原因で男の子からからかわれたりして、つらい思いもしてきました。
私は、アトピーを治す=表面に出ている傷を治す、ことだと思っていたので、薬を塗ることだけが治療だと思い、ずっと薬に頼り続けていました。 そして、こんな体に産むなんてひどい、と両親を恨んでいました。
アトピーの原因は体だけではないことに気付いていなかった私は、ひたすら人や自分以外の物のせいにして、自分の体をいたわるどころか「なんで私だけこんな目にあうの?」と悲劇のヒロインになっていました。
そんな私が、前に進むことも後ろに戻ることもできなくなったのはちょうど2年半前くらいのことでした。
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福岡校 斉藤 蓮さん(39歳 女性)
私は、物心ついた時から、どうして生まれてここに居るのだろうと不思議に思う子どもでした。 私は、両親と私の3人家族で、母は肝臓が悪く私を生むことも命がけだったと、私が兄弟がほしいと言う度に、母からそう聞かされたものでした。
父は、母より7つ年下で、20才で結婚し私が生まれたころはまだ21才で、若かったせいか いつも仕事が終わると毎晩飲み歩き、休日は自分の趣味で出かけ、まったく家に居ることがありませんでした。母といつも2人きりの生活。 父は、営業という仕事柄かストレスが溜まると飲んで帰って来ては、月に何度か大声を出し、物を投げ暴れるのです。父が暴れだすと、手が付けられなくて私は脅えて泣くばかり。 そのうち、私が父を止める役目になり、それでも3歳の私には押さえる事ができず、裸足のまま泣きながら隣の家に助けを求め走る事も多く、早く、父が寝付くよう息を殺し、お布団の中で神様にお祈りしながらウトウト朝が来るのを待ちました。
しかし、父は散々暴れたあげく翌朝になるとあまり記憶がないのかケロッとして、私や母に謝るのです。そんな父でしたから、単純で裏表もなく明るい性格なので友達も多く誰とでも気軽に話せる人でした。ただ、一旦お酒が入り深酒するとダメなのです。 しかし、たまに家に父がいると、いつ機嫌が悪くなり暴れださないか緊張して接していましたし、心が落ち着く事がなく、早く大人になって家を出たいといつも思っていました。毎日夜になるのがとても怖かったのです。
昔、父と母は隣に住んだことがあったらしく、父の父親(祖父)は、酒を飲んでは暴れ、父は母の家に逃げてきては、「自分は、大人になったら絶対オヤジのようにはならない」と、言っていたのに、まさか同じになるとは、と母はいつも言っていました。私も、そんな父が本当に不思議でした。 メンタルで、エリクソンの人間成長の心理学を受講した時、性格の形成では、環境の影響がどれほど大きいかと聞いた時、父の事を思い出し、父もかつて私と同じ思いをした一人なんだと、かわいそうに思いました。
中学生になったころ、私は父を避けるようになりどんどん父との間に距離ができました。 父が暴れた翌日は、恥ずかしくて近所の人に会いたくないのです。でも、こそこそするのも嫌で 誰かに会うと、いつもよりも元気に笑顔で挨拶をしていました。そうやって、自分を守っていた ような気がします。
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