大阪校 船橋 信弘さん(34歳 男性)
「今年の桜はたぶん見られると思う」
それは昨年(2005年)の年末年始、東京八王子の実家に戻ったときのこと。 年も明けて、大阪に帰る日も近づいたころ、父がぽつりとつぶやいた。
僕の母は9年前、進行性の乳がんにかかり、一旦は手術で取り除いたものの、術後 6年が経過した2003年には首への転移が見つかり、今や全身がんで侵されていた。
「今年の桜・・?」一瞬意味がわからなかった。 今年は見れる、ということは来年は?桜は見れても、梅雨のアジサイや夏のひまわりはもう見れない・・・
つまりはあと4ヶ月か5ヶ月かということだ。
既に1月から、大阪19期の研究コースに進むことが決まっていた。 何かに打ち込むことが少なかった自分にとっては、研究の多彩なカリキュラムは魅力的で、心理カウンセラーという肩書きにも正直魅かれた。
だが、突然の母の余命宣告を受けて、僕の中で研究に進むことの意味がガラリと変わった。
「本当に身近な人とコミュニケーションが取れるようになりたい」
僕の切実な願いであった。
■ 家族の関係
僕ら家族のコミュニケーションは母を介在してなされることがほとんどであった。
父とは今まで特別大きな衝突もなく、一定の距離を保って接してきた。ぶつかることもなければ、近づ
くこともない。父の話し方、話のペースがどうしても自分に合わず、イライラしてしまうため、決して父を受け入れようとはしていなかった。
ゲシュタルト※でいう欠けたところにしか焦点が当たっていない状態だ。 ※ゲシュタルトとは物事の特定部分に焦点を当てるのではなく、物事の全体像を捉えていこうとする考え方の総称
弟は小さい頃は笑顔の耐えない明るい子どもだったが、小学校中学年ごろに起きたショッキングな出来事をきっかけに、人とのコミュニケーションを避けるようになってきた。会話が成立しないものだから、おのずと関係は希薄になる。
唯一、弟が心を許せた相手が母であった。
普段しゃべらないものだから、声がとても小さい弟の話を辛抱強くじっくりと聴いていた母は、まさに一家に一人、家庭のカウンセラーだった。
母がいなくなれば、家族は崩壊する。
危機感があった。そして僕がなんとかしなくてはと思った。
■ 研究の講座を通じて知った母のこと
東京と大阪、離れてはいたが、日本メンタルヘルス協会を通じて家族と触れ合うことができた。
交流分析、 僕は会社の上司、元上司、同僚、大学時代の友人、そして母に、僕の「エゴグラム」(心理テストの一種)をつけてもらった。
出会った時期や関係性などで、「エゴグラム」の形はそれぞれ異なるものの、ひときわ目を引いたのが母がつけてくれたものだった。
僕が自分で「エゴグラム」をつける結果と、母が僕の印象を「エゴグラム」につけた結果はまったく異なるものだった。
これは一体どういうことだろう。
たぶん、母の目には僕はしっかり息子に映っていたのだろう。進学も就職も、他のことでも、僕は家族に相談したことはほとんどなかった。父も母も、僕の選択を尊重してくれた。
今にして思えば、弟に世話がかかる分、僕は一人で決めなくてはいけない、親に頼るべきではない、そして親はあてにならない、親は尊敬の対象ではないとイラショナル・ビリーフ(思い込みによる観念)を持っていたような気がする。
だから、母には同時にこう映っていたのだろう。
「しっかりした息子だが、冷たい、周りに親切ではない、自分本位だ」
そして期待も込められていたはずだ。 1枚のシートからいろんなことが見えてきた。
絵画療法では、母はとっても写実的な樹木画を描いた。僕はそれを実家から郵送で送られてきたとき思わず涙した。
講座を受ける前のこと。もちろん詳しい絵の解説は受けていない。 ただ、まっすぐにのびる並木道、季節は冬、すみきった空、冷たい空気、とにかく人生を達観したかのような、そこはかとなく物悲しい絵だった。
講座でも、真上に向かった道は人生の意味を見つけた時、落ち葉は大きな目標を達成した後の虚脱感、人生の区切りと習い、人生のクライマックスがせまっていることを、絵を通しても感じることができた。
■ 新しい生活と力ウントダウン
4月になり、新しい住まい、新しい仕事、メンタル東京校と、新しい生活がはじまった。
新しい環境にすぐには馴染めず、体調も崩しがちだったが、それ以上に母の体調が日に日に弱まってきた。
それはまるで僕が東京に戻ってくるのを待ち構えていたように。
母を見てるとすごく思う。
当たり前にできることが、どれだけ幸せなことなのかを。
母は一日一日、一分一秒を大切に、そして丁寧に生きている。 口にできるわずかな食べ物から栄養分を余すところなく吸収する。
父に支えられながら歩く、その一歩一歩の歩幅はわずか10cm。トイレまでの距離がものすごく遠い。
長旅から帰ってきた母はぐったりとまた寝る。
会話はほとんどできないものの、きっと魂で感じ取っている。
寝てるんだか起きてるんだか、意識があるんだかないんだか、うつらうつらしている母の顔はとても優しい。
まるでカラダの大きな赤ちゃんみたいだ。
4月の中ごろ、母はホスピスに運ばれた。お医者さんが言うには、あと数日。
僕はその夜、母にさよならをした。
父や弟、見舞い客には部屋の外に出てもらい、 15分ぐらいのニ人きりの時間。
今まで言えなかった感謝の言葉。一つ一つ心をこめて。
母の目から涙がこぼれ落ちている。母は何を感じ取ってくれたんだろう。明日も会えたらとっても嬉しい。そしたらまた明日もさよならしよう。
体験ガイダンスのときから、何度も話しに出てくる「一期一会」という言葉。身近な人にこそこれで、最後だと思って接すること。知っていてもなかなかできない。まさに身をもって教えてくれる母に心から感謝した。
■ そして 4月 19日
ついにその日を迎えることになる。父が書いた手記を引用したい。
「入院 3日目の朝 5時ごろ、窓のカーテンを開けて薄明るくなってきた外の景色と家内の寝姿を交互に見ながらいた私に、神様はさらに特別な時間をニ人に与えてくれました。
心のそこから家内とめぐり合えた喜び。結婚して35年、その間、喧嘩をすることもなくささやかな中にも楽しい生活ができたこと。二人の子どもを帝王切開で産み、ここまで育ててくれたこと。札幌の両親のお墓への分骨のこと。クリスチャンとしての歩みができたことなど、神様に感謝しながら家内に話しかけていました。
話の途中から家内の目は大きく開き、私の顔をじっと見たままで涙を流していました。言い終えた私は
家内の涙を拭き取りました。最後に「イエス様が迎えに来ているならば目を閉じてもいいよ。」と話した直後、家内は口元に笑みを浮かべながら目を閉じて、天の御国へと旅立っていきました。
すべてが最高のタイミングだった。
■ 母からもらった贈り物
母と関わった人は誰しもが言う。「あんなに辛い中、お母さんはいっつも笑顔で、逆に自分たちが励まされていた 」と。
口数は少ないが、笑顔を絶やさず人を勇気付ける。牧師さんはそれを顔施(がんせ)と言った。
できることが段々と少なくなっていく中、自分ができることを無理なく自然にやっている母はすごいと思う。
顔施は僕の人生観・死生観のーつとなった。
母はまた、なにげない日常の中に幸せを見つける天才だった。
日本メンタルヘルス協会の中で何度も繰り返されるメッセージ、「どんな生活でも楽しめる 」「今の自分に幸せを感じられる」「少欲知足 」「足るを知る 」「足らで事たる、身こそ安けれ」・・・
知っているし、日本メンタルヘルス協会に来る前から僕の理想とする生き方だった。
でも、言うは安し、行うは難し。
すぐそばにこんなに素敵なモデルがいたことに、まったく気がつかなかった。 母の死は、研究コースの学びに深みを増してくれた。
普段であれば、きっと素通りしていたであろう言葉に敏感になり、腕に落ちた。
58歳という生涯を生き抜いた母の身体は朽ちようとも、母はみんなの中で生き続ける。もちろん僕の中にも。
僕は誰に、どんなものを残せるのであろうか。
「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら人間生まれ
てきたかいがないじゃないか」 (山本有三 路傍の石)
母がいなくなった後に残された家族の関係は、劇的に変わることもなく、なにげない日が過ぎていく。
ただ、以前のように「僕がなんとかしなくちゃ 」という気負いはない。「きっと 1年後、 3年後、 10年後、それなりのいい関係が築けているんだろうなあ」という確信が僕にはあるから。
自分を受け入れ、他人を受け入れ、出来事を受け入れる。
置かれた境遇を悲観することなく、他と比較することなく、肩の力を抜いて自然体でゆだねられたからこそ、ながれに乗ることができたのだ。
すべては僕にこの経験を積ませるためだったんだと思う。 僕の研究コースは実に味わい深いものになった。
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~受講生のレポートより抜粋~ |
紹介スタッフ:磯馴 |
お母さんの余命宣告を受けてからの、ご家族やご自身の心境の変化。 今まで当たり前だと思っていた存在が、当たり前でなくなるかもしれない。
残された命を、いつも笑顔で過ごし続けるお母さん。 「あんなに辛い中、お母さんはいっつも笑顔で、 逆に自分たちが励まされていた」と、関わる人達が誰しも言うような 「あったかい心」をいつも絶やさずにいるその姿。
船橋さんのレポートを読みながら、ふと先生が講座の中で言っていた言葉を思い出しました。
『日本メンタルヘルス協会は、理論やテクニック、心理カウンセラーの資格を持ち帰って頂きたいのでは ありません。その奥にある、あったかいマインド(ハート)をお持ち帰りいただきたいのです。』
その時の先生の言葉が、船橋さんのお母様の姿を感じることで、自分の中により深く響いていきました。
僕自身、日本メンタルヘルス協会ですべて学び終えて、公認カウンセラーとしての資格を頂いています。 でも、その資格が人を癒していくのではない。
大切なことは肩書きではなくて、その奥にある自分の心。
学び始めた当時の僕は、『心理カウンセラーの資格があれば、 何かと役に立つだろう』と思っていた時期がありました。 肩書きを得ることで、自分にはくがつく。そんな気持ちでしばらく受講していたことを覚えています。
船橋さんが書いたレポートを通して、【自分がなぜ日本メンタルヘルス協会で学び続けていったのか】 という原点を改めて思い出させて頂きました。
お母さんのような、あったかいハートで日々を生きていくこと。
今回レポートを掲載させて頂くにあたり、船橋さんと直接お話をさせて頂いたときの印象が、 レポートの中にある『お母さん』を感じさせる、穏やかであたたかい話口調でした。 きっと、船橋さんの心の中では今もお母さんがしっかりと生き続けているのだと思います。
衛藤先生は講座の中で、 『一期一会とは、いつも身近にいる人にこそ、今日で最後だと思って接することです。』 とおっしゃっています。
余命を宣告されたお母さんと船橋さん、そしてご家族の方々の関わりを見ることで、 深い部分でその意味を考えさせられました。
僕の両親は今も健在ですが、それが当たり前と思わずに、 『一期一会』の気持ちを忘れずに大切に関わっていきます。
そして、『すぐそばにこんな素敵なモデルがいた』と船橋さんが感じたように、 遠くに何かを求めるのではなく、身近な人からこそ学べることがあるという謙虚な気持ちで、 目の前の人に対しても接していこうと思いました。
沢山の気づきを頂けた素敵なレポート、本当にありがとうございました。 また、素晴らしいお母さんの心を宿した船橋さんのご活躍を心よりお祈りしています!
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