Home 受講生の感想レポート 心の不安が生んだ夜尿症。悩み続けた子供時代を超えて…
心の不安が生んだ夜尿症。悩み続けた子供時代を超えて…

大阪校  中村 伸輔さん(29歳 男性)


基礎コース前編の4回目の授業、ライフライン!!
 今でも私の記憶に鮮明に残っています・
 忘れていた過去の記憶。思い出したくもない過去の記憶。思い出してしまった、いや、思い出したかったのかも知れません・・・。

 1980年7月9日 中村信輔 誕生。
 両親には本当に可愛がられて育てられてきたと思います。
 特に母には過剰なぐらいの可愛がってもらっていたし、周りからも過保護と言われるぐらいでした。

 「お母さん、ありがとう」とずっと思っていました。
 メンタルの授業を受けるまでは・・・・
 実は私は11歳まで夜尿症に悩まされていた。
 情けない話、私は小学校に行きながらも、夜はおしっこを漏らしていたのです。

 母は超がつく程、教育ママ。私には姉もいますが、子供2人とも小学校から、そろばん、公文、水泳、習字、ピアノ、英語教室、塾など色んな勉強をさせてもらってきた。
 そんな母が考えることは、中学受験!!私もその被害?にあった一人でした。

 良い中学に通う。そうすると良い高校、大学に行ける可能性が高くなる。そうすることがあなたにとって一番良い人生になるから・・・「あなたのため、あなたのため」
 中学受験で勉強が嫌でくじけそうな時、いつも言われていたように思われます。
 小学生で徹夜を何度も経験したことがありました。

このように厳格で厳しい、真面目で神経質で完璧を求める母でした。
 そんな母ですから、私が小学校5年生まで小便を垂らしていたなどという事実は受け入れ難いものがあったのでしょう。

 私は毎朝、毎朝、「何回言ったらわかるの?」「目覚まし鳴ったでしょ?」「夜水を飲むからじゃないの?」「この布団のシミどうするの?」「この年になってこんなことしている人いないで」「漏れたら普通気づくでしょう」「体ばかり大きくなって」「あんたはいつもダメなんだから」
 上げ出したら切りがないぐらい、罵倒され続けていたように思います。
 当時の私には言葉による虐待と感じたのかもしれません。
 もちろん母はそんなつもりはありません。
 この文章を書きながらも当時を思い出すと涙がでてしまいます。
 メンタルを受けてこれは、トラウマというものだと知りました。

 私自身、「誰が好んで小便を漏らすのか」「治したいに決まっている」「治し方がわからない」
 病院にも行きましたが大した原因は分からず、何の解決になりませんでした。
 それでも連日のように続く罵声。
 正直、朝が来なかったら良いのに・・・・。
 水も飲ませてくれないので、お風呂の水道の水をこっそり飲んでいたのを思い出します。
 歯磨きの後、口をゆすぐ水道水を飲んだりもしました。
 「なんで自分だけこんなんなんだろう・・・」小さい子供ながら、藁をもつかむ気持ちでベットで正座をして神様に一人でお願いしていました。
 「お願いします。僕のおっしっこを治してください。何でもします。お願いします。お願いします」

 生きることって何でこんなに苦しいんだろう。何のために生まれてきたんだろう?
 真剣に悩んでいました。10歳ぐらいの年齢だったと思います。

 幼少の頃から母親に認めれないというのは、幼少の私にとっては存在すらも認められていなかったように感じていたのだと思います。
 心の中で「母親に認められたい」と思っていたのだと思います。
 「皆と違ってまだ治ってないけど、いずれ治るから心配しなくて良いんだよ」「無理しないで一緒に治していこうね」「お母さんの子供だから大丈夫」「絶対大丈夫だから」という言葉がずっと欲しかったのだと思います。
 「ちょっと遅れてるけど、お前はお前のペースで一生懸命だったら良いから」この言葉をどれだけ求めていたのでしょうか・・・

 この夜尿症は、小学校5年生でピタっと治りました。
 なぜ治ったのか、今でもわかりません。
 
 しかし、この幼少の頃に受けたトラウマは後の私の人生に大きな影響を及ぼしたと思います。「必要以上に相手が思っていることや、考えていることが気になる」「必要以上に相手の期待に答えようとしてしまう」「その場限りの社交辞令が多くなってしまう」「なかなか人と本音を割って話ができない」「自分を大きくみせようとしてしまう」「プライドが非常に高い」心理学上では、相手に気を使いすぎてしまう、アダルトチルドレンというのかもしれません。

 心理学を学んで、これらの理由がヒモ解けました。
 「自分に自信がなかった。」この一言に尽きると思いました。
 おしっこをもらさない子でないと、母親に受け入れてもらえなかった。
 それは、勉強をする子でないと、母親に受け入れてもらえない。
 受験に合格しないと、母親に受け入れてもらえない。
 試験で良い点数をとらないと、母親に受け入れてもらえない。

 これらは、母と私の関係だけでなく、友人関係にも影響を及ぼしたと思います。
 オシャレでないと友達でいられない。
 スポーツができないと、友達と仲良くできない。
 人よりも稼いでないと友達と仲良くできない。
 人よりも勉強ができないと友達と仲良くできない。
 
 つまり、人に何かで勝って認めてもらわないと、人間関係が構築できないと無意識で思って過ごしていたのです。ありのままの自分を表現したいと思っていましたが、できない。そんな自分が私は嫌いでした。


 「自分を愛せるレベルでしか人を愛せない」
 私は自分が好きでなかったから、人との距離を無意識にとっていたのだろうと気付かされました。自分の良い部分も悪い部分も含めて自分を好きになろうと思うようになりました。

 この「自分に自信がない」は、今の私の生きるエネルギーでもあり、生きる苦しみでもあります。完璧を追い求める自分より来る、果てしない向上心。こうなりたい自分と、こうなれない自分の戦いの中でくる満足感と達成感、そして自己嫌悪と劣等感。

 その後私は中学受験に合格しました。
 第一志望の学校に合格、皆が羨むような私学。親からも親戚からも友達からも凄いね、と称賛の声を浴びました。でも自分の中では納得のいくものではありませんでした。
 あれだけ勉強したのに「なんでここしかいけなかったのだろうか?」当時は心の中でそんなことも思っていました。劣等感・・・・
 
 そして、もう将来は安泰と安心したのか、中学入学後、トラブルの発生です。
 中学からの非行。万引き、飲酒、喫煙、窃盗、その他校則違反などなど・・・
 同じ、学校の同級生達と数々の悪事を働きました。

 中学2年生の時集団無期謹慎処分。
 当時の友人の裏切りにより、当時10名ぐらいが一斉に集団で謹慎処分を受けた。
 中には退学になった者もいる。私は首の皮一枚でなんとか退学は免れた。
 この時の、両親の顔は今でも忘れられません。
 父は普段から寡黙でした、そんな父が発した言葉、「お前の人生で、お前がやったんだから仕方がない。もし退学になっても高校受験で巻き返したらいい」
 寡黙なだけに言葉に重みがありました。
 母は、泣きながら色々言われました。最後に「お父さんとお母さんはいつでもあんたの味方やから安心しなさい」この言葉が印象に残っています。
 本当の意味で道を外れなかったのは、この言葉があったからだと思います。両親は本当に無条件で私を受け入れてくれている。私を信頼してくれていると感じました。

 私は親を傷つけてしまった。とんでもないことをしてしまったと落ち込みました。
 そこから、心機一転、私の生活態度は変わります。
 当時からバスケットボール部に入っていたのですが、中途半端な気持ちを切り替え、部活に集中しました。また勉学にも励みました。

 高校3年生まで部活に集中した後、大会に出場することができました。
 チームワークの大切さ、夢は本当に叶うという実感。努力し続けることの大切さ。6年間部活をやり続けたという充実感。また、周りからの称賛がありました。すごいね・・・・
 しかし私には響きませんでした。
 中学の頃は何もしなくてもレギュラー。高校は死ぬもの狂いで頑張ったにも関わらず、ベンチメンバー。何で本気で頑張ったのになんでや・・・再び劣等感・・・

 その後、自分に自信をつけようと大学受験にチャレンジ。第一志望の大学が落ちる。
 何をやってもあかん・・・さらに自信をなくす。劣等感・・・・
 今思えば、3か月受験勉強しただけなので普通は落ちます。笑

 そして、滑り止めの大学へ進む。
 大学でこそ、自分に自信をつけてみせると様々なことに挑戦。

 飲食店のホールアルバイトをする→首になる
 ホテルの配膳→人間関係がうまくいかず辞める
 スポーツインストラクター→1年で辞める
 塾の講師をする→3年間する。唯一バイトで続いた仕事です。

 当時辞める時は、自分を正当化するための理由がしっかりありました。
 今だから赤裸々に言えますが、「逃げ」だったようにも思えます。

 これらの中から様々な経験を経て、私は就職活動で最も入社したい会社に入社することができました。仲良くしている先輩に就職活動に大切なのは「コミュニケーション能力」やと教わったので、それを磨くためにどうしたら良いかと考えながら大学時代を過ごしていました。

 最も大きかった経験は、塾の講師をしたことだと思います。
 幼少の経験からか、人と話すことが苦手でした。対人恐怖症、並びに赤面症でした。
 人と話しても気を使いすぎる。相手が自分をどう思っているのか常に気になる。
 そんな自分がいたので、人と接することはなるべくしたくないと考えていました。


 そんな私がなぜわざわざ塾講師を・・・
 親から認めれたい→社会から認められたい。社会で認められるためには自己主張をしないといけない。自己主張をするためには、最も適している仕事だと思ったからだと思います。
 人と話すことが得意でない私が大勢の前で話さなければならない。
 話さないといけないところに自分を追い込みました。
 自分を変えたい。人生を変えたい。そんな思いで必死だったから。
 良い就職先に入社することが、良い人生を送ること。そのための手段がコミュニケーションというのなら飛び込んで行こうじゃないか。そんな気持ちで始めたのでした。

 念願の就職先に入社してからも、不安がありました。
 それは、塾の講師をしていたのにも関わらず、アドリブに弱いということ。
 塾の講師は決められたマニュアルにのっとって話すからできました。
 ですが、社会人になって求められるのは、その場その場の対応力。電話、会議、打合せ全てで臨機応変さが求められます。

 できない自分がわかっているのに素直になれない自分。人によくみられようとして、仕事でも知ったかぶりをする自分。失敗してもそれをごまかそうとする自分。
 自分を信頼してないから、相手も信頼できない。自分が相手を信頼していないから、相手にも信頼してもらえない。

 このような状況で人間関係がうまくいくはずもなく、第一志望で入社した会社も退社しました。退社の理由は上司との人間関係でした。

 その後、辞めた会社の友人の誘いがあり、一緒に独立。
 現在、女性対象の仕事で、現場管理、スタッフの教育を主として働いています。
 スタッフにいつも言っていることは、「お客様をきれいにするだけでなく、心も綺麗にしてあげること」と言っています。だからスタッフをセラピストと呼んでいます。
 日々の仕事や、プライベートでの疲れをいやす場、肉体的だけではなく、精神的に元気になれる場としてお客様に通っていただきたいと思っています。

 この仕事を私は1つの教育産業だと思っています。私はこの仕事を通して、「良いお母さんづくり」をしたいと思っています。良いスタッフを作って、良いお客様をつくりたい。そして、強い心身ともに健康な「良いお母さんづくり」をしたいと思っています。良いお母さんをつくることが、良い子供を作ることに繋がり、良い日本、良い世の中になるように貢献できたらと考えております。

 スタッフには、自ら目標を持たして日々それに向かい頑張ってもらっています。
 目標達成ができない時もあります。その時は一緒に寄り添い、話を聞いてあげます。決して怒らない。そして、できている部分に焦点を当てて褒めてあげる。そしてもう一度「頑張れ」と言ってあげる。

 うまくいかなくても良い。その時にずっと引きずるのではなく、立ち直れる精神力をこの仕事を通じて培って欲しい。私は子供を育てたことがありません。しかし、母が私に思ったように、子供の教育は思ったようにいかないことばかりだと思います。
 
 私の母は思うようにいかない怒りを自分に向けつつ、私にも向けてしまったのかもしれません。もちろん、母に悪気はなく、ただ、子育てに必死で見えなかっただけだと思います。
 100%思ったようにいかないのが子育て、またそれが人生かもしれません。
 
 そのような人生を楽しみながら生きることの大切さ、を衛藤先生の話を聞いて学びました。
 
 今の仕事を通じて、この考え方をスタッフに伝えていきたいと思っています。

 思ったように行くのも人生、思ったように行かないのも人生。思ったように行かない時、
 周りの環境、人の責任にするのではなく、自分に目を向けて自分を変革していく力を養う。
 過去と他人は変えられないが自分と未来は変えられる。楽しむ自分になる。

 私の過去の出来事は変えれません。過去の出来事の捉え方を変えることで自分が変わった気がします。これからも人生色々とあると思いますが、楽しみたいと思います。
 
 衛藤先生が言う、どんな波が来ても決して沈まない船。どんな風や天候が悪くても、決して落ちない飛行機になりたいと思います。
 
 本当にありがとうございました。過去の自分を受け入れることができました。その証拠にこのように過去の絶対に人には聞かれたくないような話も私はこの文章を通じて書いている。このこと自体が私を強くしてくれたように思います。それが私のメンタルに通って一番の癒しになったと思います。

 

~受講生のレポートより抜粋~
  紹介スタッフ:野本

中村さんは、今も毎週毎週再受講を繰り返し学び続けています。
 「繰り返して学ぶことがどれだけ大事なことかということを毎回感じています」とおっしゃっていました。
 いつも熱心に学んでいつも笑顔でお逢いする中村さんの大切な人生の背景を、今回レポートを通して教えてもらいました。

 中村さんがお母さんとの関係の中で幼いころ感じていた「劣等感」。
 誰かと比べて自分が劣っていると思う感情。
 条件付きでなければ愛してもらえない!あるがままの自分では駄目だ!どうせ自分なんて!意味がない!価値がない!と自分を責めて自己評価が低い、人の悩みのなかでこの劣等感が強いが故にコミュニケーションが上手くいかないケースが多い気がします。

 人と比べても決して楽しくないのに比べることでしか自分のことを表現できないと、人間関係上手くいかないですよね。
 僕も受講している当時、劣等感がとても強かったので中村さんのお話が自分の事のようにも思えました。

 でも中村さんが今でも記憶が鮮明に残っていると冒頭に上げた「ライフライン」。
 自分の人生を一本のラインで表してみるワーク。
 過去を振り返りその年代年代にあった出来事、感情の起伏を一本の線に託していくといろんな気付きがあると思います。

 そのライフラインを講座でシェアーしていくと、本当に人それぞれ違う人生があるのだということ、一人として同じ人生を歩んでいる人は居ないということを僕自身多くの受講生の方から教わりました。

 その時にいつも思うんです。これだけ人の人生は違うのに何故いつも誰かと比べて生きてきたのだろう?自分にしか出来ない経験、味わえない人生なのに何で誰かと比較してきたのだろう?と気付かさせてもらえました。

 「自分を愛せる程度しか他人を愛せない」講座で教わったこの言葉の意味が、多くの生徒さんの人生を教えてもらう度に理解が深まり、だからこそ「他人と比較しない」「自分自身であれ」と、講座で学んだことがスーと府に落ちていきました。

 それからです。自分の人生を、自分にしか味わえない人生を、日々楽しもうと思えるようになりました。

 中村さんも「自分の人生を人に話すのは、最初は抵抗がありました。だけど少しずつ開示していくことで、誰に認めてもらうでもなく、自分で自分の人生を受け入れていくのだと思います。そしてその自分に自信がついてくるのだと感じています。」とおっしゃっていました。

 衛藤先生が講座で話されている「過ぎ去った過去ではなく、まだ来てない遠い未来でもなく“今ここ!”を大事にしていくことが自分の人生を愛すること(受け入れていくこと)です。」という事を中村さんが実践されていのだと感じました。

 これからも中村さんだからこそ伝えられる心身共に健全な「良いお母さんづくり」を通して子供達の未来をサポートしていって下さい!心から応援してます。

 そして僕も“どんな波が来ても決して沈まない船。どんな風や天候が悪くても、決して落ちない飛行機“に!
 環境がどうであれ自分は自分を楽しめる人間になりたいと思っています。

 素敵なレポートをありがとうございました。
 また再受講で話しましょう!!