「ママ、“心に虹を”だよ。」と笑顔の娘。見上げる空は、広くて青い─ |
東京校 立花 典子さん(35歳 女性)
体験ゼミナールで衛藤先生がおっしゃっていました、「笑う門には福来る」と。私はこの言葉で日本メンタルヘルス協会で学びたいと思いました。何故かというと、それは私の夫がよく口にしていたからです。そして私が落ち込んでいたときに励まし、慰めてくれたのです。
その励ましと慰めをなくした時、私はうつ病とパニック障害になりました。ご縁があって日本メンタルヘルス協会を知ることができ、体験から基礎コースを今学び終えようとしています。講座を受けてみて、久々に笑顔になれたように思います。胸にズン…と響くようなショックも受けましたが、ショックを受けた部分とは、心の奥底でわかっているけれど向き合いたくないという気持ちが蓋をして、今でもしこりとなって残っている部分だと思います。でもその蓋を開けた時、今までの自分を振り返りながらその時々の悩みや殻に閉じこもっていた気持ちが整理されていくようでした。
私は、小学校2年生くらいの時、学校の健診で左耳が難聴であることがわかりました。片方が聞こえていたので、テレビを見て笑ったり、日常にさほど困難な様子を見せていなかったので、両親は驚いたのでしょう、大学病院から鍼灸治療の名医といわれる先生や様々な所へ私を連れて行きました。でも「諦めてください」という結果でした。
中学へ行くまで私は左耳が聞こえないことや両親がなぜあちこちの医者に相談するのかよくわかりませんでした。きっと不自由さが当たり前だったからです。そして、中学へ入学してから孤独感をあじわうようになってきたことに気付きました。あとで友人が教えてくれましたがクラスメートから呼んでも知らんぷりしている、お高くとまってるいんじゃないかなど思われていたそうです。クラスの皆の輪から外れてしまっている自分がいました。
右耳も音はわかっても言葉がよくわからないという状態になってしまった時期もありました。皆にわかってもらえなくてもいいと意固地になり、それから人間関係に積極的ではなくなりました。社会人になっても、表面的な付き合いはしましたが、やはり一人で趣味を見つけてあちこち出掛けたりと、一人の方が楽だったのです。負けん気が強く、その分仕事は人一倍頑張り、それなりに評価してもらえました。その頃は楽しかったし、生き生きしていました。でも、本当はすごく寂しかった…それをかき消すように仕事をし、自分が周囲に認めてもらえることで皆と同じ場所にいられると考えていたのだと思います。
そんな時、夫に出会って結婚しました。と、同時に家庭に入り、すぐに子供も授かりました。夫は仕事が忙しく、いつも帰宅が遅い人でした。仕事は家庭に持ち込まず、どんな小さな事も、愚痴でも私の話を聞いてくれる人でした。新婚早々から初めての妊娠で入退院を繰り返しても、子育てに落ち込んでいても、耳が不自由でママ友達が出来なくても、どんな時でも受け入れてくれました。「それでもいいじゃないか。俺たちがいるだろ。だから笑って!笑う門には福来たるって言うだろ。」と。これが夫からのIメッセージ“I love you because you are you .”でした。でも、そんな夫の優しさに甘えて、夫を責めるYouメッセージばかりの私でした。心の中ではとても感謝していたのに、それを素直に伝えられなかったのです。せめて夫が安心できる明るい家庭にしたい、もう一人子供がいれば楽しくなるのではと思い、二人目の子供を望みました。
ところが…三年前、私と当時四歳だった娘の目の前で夫は突然死してしまいました。私のお腹にいた、もう一人のわが子の顔を見ることなく…。私は素直な気持ちを伝えることができないまま夫との別れを迎えました。泣きながらIメッセージを伝えられたのは、棺の中に入ってしまった時でした。「ありがとう…とっても幸せだったよ。ありがとう!」私は何度もそう言っていたそうです。
その日は普通の家庭にあるような日曜日でした。私が夕食の支度をしながら、パパっ子の娘と夫はゴロゴロしながらテレビを見ていると、娘が「ママー!」と大声で呼ぶので、対面キッチンのカウンターから「なぁに…」見ると、3分ほど前に会話したばかりの夫がおかしな息づかいで真っ青になっていました。尋常でない様子にどうしていいのか…声をかけても、意識はなく苦しそうな顔、「救急車呼ぶねっ!!」電話口で指示をもらい、そして質問に答える私。その間に夫は…。電話を置いて救急車が来てくれるまで、冷たくなっていく夫の体をただ擦り、毛布で温めることしかできませんでした。救急隊が5,6人来て、心臓マッサージと電気ショック。しばらく色々と処置をして、救急車に乗り救命救急センターへ。初めて乗る救急車はすごく揺れ、お腹が大きい私は座っているのが大変でした。そして、絶対助かることだけを信じてじっと待合室で夫を温めていた毛布を抱えていると、処置室へ呼ばれました。自動ドアが開くと、そこには神妙な顔のドクターと看護師の方達がこちら向いていました。ゆっくりと丁寧な口調で一人のドクターから夫の最後の時を告げられました。
それからは、忙しくてもう大変です。葬儀の準備や夫の勤めていた会社の方々や関係者への連絡や来訪、近所へ挨拶回りまで、その後も会社の上層部の方へ手紙を書いたり、様々な事務手続きで区役所巡り、裁判も覚悟の問題が二件あり、弁護士の先生の所へ相談しに行ったこともありました。訳がわからず、それだけでも疲れました。
亡くなる以前の半年間はタクシー帰りがほとんど、家には仮眠を取りに帰ってくるような生活、夫の身体がとても心配でした。「疲れているんじゃない?」とか「少し休んだら?」と言われることが嫌いだった夫は「大丈夫だよ。気持ちがぶったるんでいるんだろ。」と自分に言い聞かせるように言っていました。(メンタルの大脳生理学の講座で脳幹について学んだときは、この当時のことを思い出しました。)もっと違う言い方で休ませてあげる方法があったのではないか、もっと私が精神的に自立していれば、夫はもっと安心することができたのではないかと、悔やむばかりでした。そして、夫側の親戚からの言葉や行動、周囲からの哀れむ目、興味本位で話かけてきて噂話を広げてくれる人からの圧力にさらに私は落ち込み、その度ごとにプラス思考にならなければと、「言いたい人には言わせておけばいい。私には理解して助けてくれる親兄妹がいて、夫の会社の人たちは親身なって心配してくれる。私たち親子はそれだけで十分恵まれている。」そう、自分に言い聞かせていたのでした。世の中優しい人ばかりではないとある程度は覚悟していましたが、私の心は限界に近づいていました。
毎晩、家族が寝静まるころになると色々なことが頭に浮かび眠れなくなり、時計の秒針の音を聞いていると一人で歳をとることの不安が押し寄せてきたのでした。待っていれば夫が帰ってくるのではないかと明け方まで起きていたり。ベッドに入って夜中に何回も目が覚めては、すぐ横でいびきをかいているのではと思い…でも夫にそっくりな小さな息子の寝顔があるだけでした。私は「子供たちは絶対にきちんとした社会人になるまで育てる!でも役目が終わったらすぐにお迎えにきて欲しい。」と言うようにもなりました。そうして徐々に心は病んでいったのでした。娘の心にも暗闇がかかっていたというのに。
大人の私でも人の死を目の当たりにすることは、ショッキングなことです。娘は四歳とはいえ、人の死を受け止めて今でも記憶に焼き付いているのです。「パパ、青くなって、冷たくなちゃったね。パパ、お返事してくれない…。」大好きなパパがすぐ側で亡くなり、ママは病院…?ママももう帰ってこないの?・・・それは不安でしょうがなかったと思います。様々なことに追われて身体にも影響が出ていた私は、鉄分不足と切迫早産で入院をしなければならなくなりました。お腹の子は大事だけど娘も大事。何とか安静を保つことと薬で娘の側にいてあげられないかと先生に頼みました。でも、側にいてあげられても、抱っこしてあげられない、幼稚園の行事にも出席できない、娘の不満は爆発しました。「もうっ!ママなんかっ!!」寂しくて寂しくてしょうがない、抱っこして欲しいだけなのに。痛いほどわかりました。祖父母や伯父叔母がいくら抱っこしてあげても、パパと同じ肩車をしても、相手が違うのです。その時はただ「ごめんね…」と泣いて抱き締めるしかできませんでした。そして待ちに待った弟の誕生、でも何か違う。一人天下だった娘の試練はまだ続くのです。
一方私は、無事に息子が生まれてきてくれ、ほっとしました。「本当によかった、生まれてきてくれてありがとう!」嬉しかった。反面、祝福ムードの産婦人科病棟、一番わが子を抱いて欲しい人がいない寂しさで、夜中は息子を抱いて病院の中をウロウロ歩き回っていました。産後2日目から夫の両親の行動に私は追い込まれていきました。それでも、誰よりも親孝行だった夫に申し訳ない、この人たちがいなければ夫は生まれてこないのだから、大事な息子に先立たれてとても辛いだろうと思い直し、自分の本当の気持ちと板挟みになっていました。いら立つ日々。そして、私は急に当たり前に出来ていたことが出来なくなりました。
恥ずかしい話ですが、片付けることが出来ない。自分は散らかして歩いているのに子供には「片付けなさい!物を大事にしなさい!」ときつく言う。娘もどんどん散らかすようになって余計にきつく怒鳴ることもありました。私が悪い見本を見せているのに子供に躾しても説得力がありません。大事な通帳
もどこへしまったのかわからない、洗濯した衣類を空っぽの引き出しにどうやってしまっていいのかわからない、外出時は何回も玄関の戸締りを確認するなどなど、明らかに普通ではない行動に、こんなことをしていて、この子たちを育てていけるのだろうか。もっとしっかりしなくちゃと言いながら、どんどん不安が募っていきました。そして、外に出て人の輪の中にいると、急に息苦しくなったり、動悸や目まいなどのパニック発作を起こすようになりました。もう駄目だ。私が元気で笑顔でいなければ、子供たちが可哀想だし、この二人を責任もって育てるのは私しかいない、だから誰が何と言おうがもう自分が思うように生きようと決めました。心療内科も受診することにしました。
その頃、娘は小学校に入学しました。友達を作ることが出来ず、いつも一人で本を読んでいたと担任の先生から聞きました。筆箱の中の新しい鉛筆は全てかじった跡がぎっしり。自由帳にはページが進むにつれ、姿が無くなる自分の姿や暗い家が描かれていました。すぐ先生に相談しました。ある日の朝、急に大きな不安の波が押し寄せ、私はパニック発作を起こし、娘は登校班の集合場所に行けず、息子は保育園に送ってもらえず、「ママー大丈夫?」と苦しむ私のそばでただうろうろしていた頃、娘の担任の先生からの電話が鳴り、家まで飛んできてくれました。クラスの生徒たちが待っているので、入れ替わりにきてくれたのが、養護教諭の西原先生でした。後日、落ち着いた頃、お礼の挨拶に保健室を訪ねたとき、日本メンタルヘルス協会のことを教えて下さいました。そして、体験ゼミナールを受け、今に至っています。
基礎コース前編の初めての受講日には、会場でパニック発作を起こしてしまい、大変ご迷惑をおかけしてしまいました。私自身、かなり自信をなくし、講座の受講をやめてしまおうかと思ったのですが、もう一度あの中に入って衛藤先生の言葉を聞きたい、もう一度頑張ってみようと一ヵ月後に向けて外に出る訓練をしました。頑張ってよかったです。大脳生理学、Iメッセージ、ゲシュタルトや論理療法、トランスパーソナル心理学など自分にとって身近な講座ばかりでした。
そして今特に実践していることは、暗示です。自分に対してもそうなのですが、娘の心を解放してあげたいと思い、まず、Iメッセージで「ずっと寂しくても一生懸命、我慢してたよね。ママがお腹が大きい時も病気になって怒ってばかりのママでもいつも側にいたよね。あなたの悲しみも寂しさも本当はわかっていたけれど、上手く受け止めてあげられなくてごめんね。でもママはあなたがいたから頑張れた。あなたが可愛いくて可愛くていつも眠っているあなたの頭をなでていたの。だから、心配しないで、ママはあなたが大好きだから。」娘はボロボロと大粒の涙をこぼし、心を洗い流したようでした。
それから、夜寝かしつける時、深呼吸をさせて、頭をなでながら、「“I love you because you are you .”だよ。大丈夫。失敗しても諦めないで少しずつやっていこう。あなたは優しい子だから、お友達もできるし、明るく素敵な子になれるよ。」としばらく続けました。今では、友達と元気に走り回っていますし、校長先生に褒められるくらい元気な挨拶が出来る子になりました。まだ上手な言い方が出来ないけれど、私の気持ちは娘の心の奥に届いたのだと思っています。今、もうすぐ三歳になる息子にも“I love you because you are you .”と伝えています。キョトンとして聞いている顔はとても可愛いのです。
「ママもねえね(娘)もみーんな、あなたが生まれてきてくれてとっても嬉しいよ。」
私は急に薬を断つことはできないので、今でも心療内科に一応、通院しています。しかし、薬を飲み忘れることがあっても普通に過ごせますし、パニック発作はもうなくなりました。相変わらず上手く片づけられなかったり、子供たちの学校や保育園に持っていくものを用意してあげることもきちんとできない、しょうがない母親ですが、でも誰よりも子供たちを抱き締め、本当の笑顔にさせてあげられるのは、私しかいないと思っています。人の何倍も時間がかかってもいい、少しでも着実に前に進めば、きっと以前より明るい私になれる、豊かな人生を送れると確信しています。
だから今、夫に伝えることは…「あなたごめん。子供たちのためだけでなく、自分の人生を楽しむことにしたから、まだ迎えにこなくていいわ。でも決してあなたを忘れないよ。これから、また楽しいこと、悩むこと、悲しいこと、うれしいこと色々あると思うけど、その時はあなたのことや言葉を思い出すから見守っていてね。」
“I love you because you are you .”素晴らしい言葉です。どれだけ心を穏やかにし、素直にさせてくれたことでしょう。メンタルで教わったことは全て財産ですが、私にとって特にこの言葉に出会えたことは大きな財産といっていいと思います。不器用でもいいじゃない、素直な自分のことも子供たちのことも大好きだと胸を張って堂々と生きていけます。
余談ですが、先日、私が「上手くいかないなぁ」と小さな溜息をついたら、娘が側にきて、 「ママ、“心に虹を”だよ。」と笑顔で言ってくれました。「えっ!? なんで知ってるの?それは衛藤先生の…これって、シンクロニシティ(意味ある偶然)…?」でもそうですね。娘も私が学んだことを感じていたのかもしれないし、夫が娘を通して励ましてくれたのかもしれない、勝手にそう思っています。
“心に虹を”とつぶやきながら見上げる空は、広くて青くて、とても気持ちがいいです。
このレポートの締めくくりに、私は夫に出会えてよかった。私の子供たちに出会えてよかった。兄妹と私を生んでくれた両親に出会えてよかった。今まで言葉を交わした人たち、いい人も、嫌な人にも出会えてよかった、と心から言えます。感謝の気持ちでいっぱいです。今の私があるから。
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~受講生のレポートより抜粋~ |
紹介スタッフ:森山 |
どんな時も必ず自分の味方になって応援してくれる大切な人、いつもそばにいてくれるのが当たり前と思う大事な人を突然に失ってしまう。
それは誰にでも、この瞬間にでも、いつでも起こりえる事。 特別な人にだけ訪れる出来事ではありませんよね。
そして後から気付く時がある。「あの時の私は幸せだったんだ」「あの人に感謝の気持ちをきちんと言っておけば良かった」「ごめんね・・・」時間が経過してからでも伝えられる相手もいますが、 ありがとうや謝罪の言葉を、もう二度と直接伝える事が出来ない相手もいます。
「日常の当たり前は沢山の奇跡の積み重ね。」 私はこの言葉を講座で知って、日常の中にちりばめられた小さな沢山の幸せに感謝して一瞬一瞬を大切に過ごしていきたいと考えていましたが、立花さんのレポートからの気付きで その気持ちをより深く心に刻みました。
立花さんは基礎コース13講座を全て受講され、2週間前の9月13日、東京校修了式に出席されました。私は会場で受付を担当させて頂き、立花さんと初めてお会いしました。 当日の立花さんは、優しい笑顔の中にも、しっかりとご自分をもっていらっしゃるのが印象的でした。
私は立花さんのレポートにとても感動したので 今回のレポート紹介をさせて頂きたい旨を伝えるために、先日お電話をしたところ、 立花さんは「このレポートを書いている時、私はとれだけの方達が見守ってくださったか、 助けてくださる方がどれだけいたか、ご理解とご協力を頂いたかを痛感しました。
私は両親の支えもあって子育てにも恵まれていました。私だけではなくて、皆様色々おありだと思います。 100%回復したわけではないので これからも再受講で自分に染み込ませるようにします。」とおっしゃっていました。
ご本人のレポートにある通り、日ごろから周りの方に心から感謝されていることが伝わってきました。 電話越しにでもさらに毎日を明るく頑張っていらっしゃる印象でした。
今月から立花さんは研究コースに進まれます。ますます輝きを増されるのだと思います。 感動的なレポートを本当にありがとうございました。
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