私は高校で国語の教員をしています。かわいい生徒たちと優しい同僚に囲まれ、毎日楽しく仕事をしています。
学校の先生になりたいというのは、私が物心つくかつかないかの頃からの夢でした。学校の先生方の姿を見て、「私もああなりたい」「私だったらこんなことをしてみたい」と考えることが、気付いたら癖になっていたのです。長年の夢がかなって今の学校にお勤めできることになり、初めて出勤した日には、嬉しさのあまり、電車の中で涙がとまらなくなったほどでした。
採用されたばかりの私は22歳。夢と希望に満ちあふれ、学校のため、生徒のためと、毎日がむしゃらに仕事に励んでいました。生徒からも、歳が近くて相談しやすいからと、ベテランの先生方には相談しにくいことを相談されたり、一緒に問題を解決したりして、生徒の役に立てていることを嬉しく思っていました。
しかし、新人と呼ばれるような頃を過ぎ、一人で担任を持つようになってしばらく経って、ふと考えてみると、自分に個人的な相談に来てくれる生徒がほとんどいなくなっていることに気付きました。学校の体制が変わり、全体がにわかに忙しくなるとともに、年数を重ねるごとに増えていく責任の重い仕事に振り回される毎日。以前は生徒に声をかけられるとあんなに嬉しかったのに、今では、忙しい時に執拗に声をかけられるとついイライラしてしまう。自分のクラスの生徒のことで他の先生からご注意を受けると、「どうしてちゃんとできないの!」と本人を必要以上に叱ってしまう。そんな先生に、誰が相談したいなんて思うでしょうか。いつしか、自分は教師に向いていないのではないか、辞めて別の仕事をした方がいいのではないか、とさえ思うようになりました。
そんな時です。
気持ちが安らいで、元気になれるような本は何かないかな・・・と本屋さんをさまよっていたとき、店頭に平積みされていた”ひすいこたろうさん”の「名言セラピー」という本が目に入りました。きれいな色の表紙に惹かれてパラパラとめくってみたところ、いくつか自分の求めていたような言葉が目に入り、立ち読みでは惜しくなって購入したのがきっかけでした。著者のひすいさんの言葉は一つひとつが感動的で、この方が教わっていたという心理カウンセラーの衛藤先生に、私も学んでみたいと思ったのです。
基礎コース前編の最初の講座で学んだ「効果的な聴き方」にはとても感動しました。それまでの私は、相談に乗ってあげるということは、相手の気持ちになってとことん同意してあげることだとばかり思っていました。共に笑い、共に泣いてこそ、相手の気持ちをわかってあげることができ、喜んでもらえるのだと思い込んでいました。しかし、それでは自分が疲れてしまう上に、相手と共に暴走してしまう可能性もあります。アクティブ・リスニング(積極的な聴き方)にはそうした危険性がなく、相手に自分の問題を見つめなおしてもらうのに、とても効果的な聴き方だと感じました。
学校では、生徒や保護者と面談をする機会が多くあるので、早速この聴き方を採り入れてみました。すると、「自分の気持ちをわかってもらえた 」と実感できた相手が、こちらが根堀り葉堀り訊くまでもなく、自らどんどん素直な気持ちを話してくれるようになったのです。
そして、感謝のIメッセージ(自分の素直な気持ちを伝えるメッセージ)。私の心の中では、伝えたい相手がすでに決まっていました。自分のクラスの生徒たちです。毎日顔を合わせては、あれをしなさい、これはしちゃ駄目、と口うるさいことばかり言ってしまっていましたが、それは実は彼女たちに対して、ものすごく大きな信頼と期待があるためなのだとわかったのです。基本的なことができていない人に発展的なことは求められません。こちらが求めるレベルが自然と高くなっているということは、相手がすでにそれに応えられる素質を備えているということだと気付いたのです。
4月最後の日、私は意を決して、講座で出されたIメッセージを伝える宿題を実行に移しました。帰りのホームルームの時聞を少し使って。
「実はね、今、心理学の勉強をしていて、自分の大切な人にこういうメッセージを伝えるっていう宿題があってね、少しだけ聞いてもらっていいかな」なんて、慣れないことにしどろもどろになりながら話し始めました。
「みんなのことを担任して1ヶ月になろうとしています。1組の担任ということだけ決まったときには、まだ自分のクラスに誰が来ることになるのか全くわからなかったけれど、それでも自分のクラスにみんながいてくれるって想橡しただけで、嬉しい気持ちがこみ上げてきました。名前も、顔も、どんな性格の子かもまだわからないのに、まだ見ぬみんなのことがたまらなくかわいいと思えたんです。不思議でしょう?私には出産の経験がないけれど、赤ちゃんができたことがわかったお母さんの気持ちって、こういう感じなのかなって思いました。
名簿がもらえた日は嬉しくて、家に帰ってみんなの名前を紙に書いたり、声に出して読んだりしました。どんな願いがこめられた名前なんだろうって想像しながら。みんなが教室にやって来る前日には、新しい雑巾でみんなの机を拭きました。みんなのことをきれいな教室で迎えてあげたかったから。ここにはどんな子が座るのかなあって思いながら、一枚一枚拭きました。
それなのに、毎日毎日顔を見るたびガミガミ言ってばかりでごめんなさい。みんなが想像以上にいい子たちだったから、もっといい子に、もっといい子にって、欲が出てしまったんです。そうやって私がお願いしたことは、できるようになってくれたらすごく嬉しいです。みんなには、それができるようになるカがあるから、やっぱりこれからも時にはガミガミ言ってしまうことがあると思います。
でもこれだけは忘れないで下さい。私は、みんながいい子だから好きというわけではないんです。だって、みんながどんな子だか全く分からない頃から、私はみんなのことが大好きだったんですから。
だからみんなが、今日は欠席も遅刻もしないで、こうして全員席に座っていてくれてすごく嬉しいです。
みんな私のクラスにいてくれて、ありがとう。」
クラスからはどよめきの声。「先生、急にどうしたの?」「まさかお別れするわけじゃないよね?」「なんだか卒業式みたい!」など。でもどの顔も恥ずかしそうに、そして嬉しそうに笑っていました。内容は、自分としてはいつも心にあるようなことばかりで、特に言う機会がなかったから言わずにいただけなのですが、言えばこんなに喜んでくれるのだと初めてわかりました。こういうことは本当は卒業式くらいでしか言ったことがありませんでしたが、何も卒業式を待たなくても、普段から言ってあげていいのだと思いました。
「きちんとさせなければ」それは担任として、とても大切な気持ちではあります。学校という組織の中で、自分のクラスだけ自分の価値観で動かしてもいいということではないからです。しかし自分は、長く教員をやっている間に、決まりばかりにとらわれて、何だかもっと大切なものを忘れていたような気がしました。「遅刻するな!」と怒るのではなく、「朝いなかったから心配だったよ」「遅れても学校に来てくれて嬉しい」という自分の正直な気持ちを伝えるだけで、相手の表情も態度も見違えるように変わったのです。
心理学を学ぶようになって変わったのは、周囲ばかりではありません。何よりも自分自身が固定観念(自分自身の勝手な思い込み)から解放され、前向きな捉え方ができるようになって、心穏やかに過ごせるようになったのです。
なかでも嬉しかったのは、クラスの生徒に「どうしてそんなに笑ってるの?楽しいことでもあった?」と訊いたら、「え?いま、先生が先に笑いましたよ!」と言われたことでした。知らず知らず、自分の表情が良くなっていたのです。
常に笑顔でいることが板についてきたら、大変なときや忙しいときでも、よく笑うようになりました。笑っていると、不思議とイライラすることがなくなりました。生徒とコミュニケーションをとる機会も増えました。「先生、最近すごくかわいくなったね!恋してるでしょ?」「うーん、今はみんなに恋してるかな?」「何それー!わーい!」という会話が交わされている私の学校は女子校です。
また、いま私が教育をする上で常に心がけるようにしているのは、講座で衛藤先生がよくおっしゃっていた、「自分がよくなるカは必ず自分自身が持っている」と信じることです。教師にとって、生徒はみんな我が子のようなもので、ついつい何でもしてあげたくなってしまったり、お節介をやいてしまいたくなったりするものです。しかし、「水飲み場には連れていけても水を飲ませることはできない」と言われるように、必死になって手綱を引っ張るだけでは何の解決にもなりません。私は今では、自分がその子に何かを「してあげられる」などと思うことは不遜なことだと思うようになりました。その子が立ち上がりたいと思った時に、抱き起こして立たせてあげることは教育ではありません。
それよりも、立ち上がろうとすることを肯定する言葉をかけてあげること、苦しいときにはつかまる肩を貸してあげること、そして立ち上がれたときには、心から祝福してあげることが大切だと考えてい
ます。
これからは、基礎コースで学んだことを日常生活や教育の現場に活かし、自分も周囲の人も毎日幸せを感じられる生き方ができるように働きかけていきたいと思っています。また、研究コースでさらに力を磨いていきたいと思います。
そして希望どおり、私は引き続いて研究コースに進みました。
3月に自分のクラスの生徒の卒業式と研究コースの修了を控え、学校では卒業証書に生徒の名前を書き、家では修了レポートの作成に励みながら、私はこの1年間のことを思い出していました。
昨年4月、私は最愛の生徒を一人失いました。1年のときにも担任したことのある生徒でした。49人の前で、「3月にみんな揃って卒業しようね」と約束した始業式の、その翌日のことでした。朝のホームルームで姿が見えず、電車の遅れもあったので、どこかで来られなくなっているのだろうと思いました。すぐに家に連絡を取ったその電話で、彼女の死を知らされました。私は自分の耳を疑いました。前日までそこにいて、友達と喋り、笑っていた彼女が・・・。呼吸が大きくなり、身体の震えが止まりませんでした。その場に崩れてしまいそうになったとき、「誰か、代わりに教室に行ってくれ」という主任の言葉が聞こえ、私ははっと我に返ったのです。「私には、他の48人の守らなければいけない生徒がいる」と。
あのとき、もし私に何も守るものがなかったら、そのまま泣くことができていたのでしょう。しかし、私が泣いていては、まだ何も知らない生徒に動揺を与えてしまいます。私はついに、翌日の帰りのホームルームで生徒にこの事実を報告する時までの丸二日間、何食わぬ顔で、生徒の前に立っていました。普通に出席をとり、普通に笑い、普通に喋り、普通に叱り・・。私は泣きたくなかったのです。泣いてしまうのが恐かったのです。一度泣いてしまったら、もう生徒の前で笑ってあげられなくなってしまうと思ったからです。そうやって自分の気を引き締め、悲しみを誤魔化し、無理に笑っているうちに、私は本当に泣けなくなってしまったのです。
私は彼女の机をすぐに片付けてしまいました。他の生徒たちが、誰も座らない座席を見て、悲しいことを思い出したりしてほしくなかったのです。一日も早く生徒たちの笑顔を取り戻したくて、私は必死でした。新学期すぐに始まった授業も、私は笑顔でこなしていました。冗談を言って生徒たちを笑わせたりもしていました。休日には毎週のように誰かと約束して出かけていました。部屋に一人でいると、いろんなことを思い出してしまうのが恐かったのです。私は、自分と生徒たちの笑顔を維持することに、半ば躍起になっていたのかも知れません。
同時に、私は何て薄情で、不謹慎な人間だろうと思いました。映画を見たって涙が出るのに、大切な人の死を前に、涙がひと粒も出ないなんて。笑っていられるなんて。冗談が言えるなんて。遊びに出かけてしまえるなんて。そんなんで教師だと、そんなんでカウンセラーになりたいんだと、言っている自分が恥ずかしくなりました。
思えば私は、「教師たるもの、どんな事態が起こっても、生徒の前でしっかりしていなければならない」という固定観念にとらわれ、教師というペルソナ(仮面)をつけて、自分の本心を自分に対してさえ隠してしまっていたのかも知れません。しかしまた同時に、「大切な人が亡くなったのだから泣くほど悲しむのが当たり前だ」という固定観念にも縛られ、それができなくなった自分を必要以上に責めていました。
ある日、「えとうのひとりごと」という、衛藤先生のHPを読んでいました。最新のものしか読んだことがなかったのに、その日に限ってバックナンバーに目をやっていました。私が目を留めたのは、1999年 2月 25日に書かれた「誕生日に母に贈るレクイエム」です。そこに出ていたのは、谷川|俊太郎さんの「これが私の優しさです」という詩でした。
窓の外の若葉について考えていいですか
そのむこうの青空について考えても?
永遠と虚無について考えていいですか
あなたが死にかけているときに
あなたが死にかけているときに
あなたについて考えないでいいですか
あなたから遠く遠くはなれて
生きている恋人のことを考えても?
それがあなたを考えることにつながる
とそう信じていいですか
それほど強くなっていいですか
あなたのおかげで
(『これが私の優しさです』谷川|俊太郎詩集 集英社文庫)
基礎コースで学習していたとき、私はトランスパーソナル心理学※の分野にいま一つ実感が持てずにいました。そんな不思議な現象が本当にあるなら、どうして彼女の死を事前に察知し、回避することができなかったのか。グループのみんなが話す不思議な体験談も、自分には縁がないことのように思って聞いていました。誰もいない放課後の教室で、幽霊でもいいからあの子に会いたいと思っても、夜、せめて集合無意識(人類全体が共有する普遍的な心)を通して夢に出てきて欲しいと願っても、不思議な現象など、一つも起きたことがなかったのですから。
トランスパーソナル心理学※:
1960年代に展開しはじめた心理学の新しい潮流で、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く第四の心理学。人間性心理学における自己超越の概念をさらに発展させたといわれている。「あの人に電話をしなければ」と思っていたらその人から電話がかかってきたり、「あの人に会いたい」と思っていたら街で偶然に会ったりなど、通常「偶然」と言われる現象は実は偶然ではなく、人間の無意識の部分はすべてつながっているので想いが伝わっていると考える。
しかしこのコラムを読んで、衛藤先生も私と同様、大切な人の死を前に、じっくり悲しむことのできなかったご自分を責めていらした過去があったことを知りました。必要なものは必要なときに与えられると言いますが、このコラムはまるで、今の私を癒すために書かれ、10年もの間静かにそこにあり続け、必要となるまさにそのときを待って、私の目の前に現れてきたような気がしました。そして私は、10年も前の衛藤先生から、今の自分に「それでいいんだよ」と言っていただいたような気がしました。衛藤先生と出会い、この詩に出会うために、私はメンタルと出会っていたのかも知れません。
こうして「泣いてもいいよ」と「泣かなくてもいいよ」という二つの解放を自分に与えることができた私は、焦らずゆっくりと、問題を直視することができるようになる日を待ちました。そして、その年の秋ごろ、何の前触れもなく、その日は突然おとずれました。私は一週間ほど、誰にも気付かれないように静かに泣き続けたあと、やっと心から笑うことができるようになりました。
しっかりしなければと思いながら、結局立ち直るのに一番時間のかかってしまった私を、生徒たちは本当に優しく、あたたかく支え続けてくれました。「先生、大丈夫?」「大丈夫だよ、どうして?」「でも、声がふるえてるよ」と言われ、はっとしたこともありました。元気なふりを続けることより、悲しんでも、ちゃんと元気になることの方が先だったはずなのに、無理をしたためにかえってまわり道をしてしまい、生徒に心配をかけてしまっていました。こんな情けない担任の姿からも、クラスの生徒たちに何かを与えることができたのでしょうか。「このクラスが大好きです」「先生のクラスになれてよかった!」という数々の Iメッセージをいただきながら、何とかこの一年を過ごしてくることができました。
生徒の卒業も目前に迫ったある日、私は意を決して、今までなかなか開けられなかった彼女のロッカーを開けました。
そこには・・・青い色の、一束の造花が、誰かの手でそっと置かれていました。荷物が多く、普段なら空きロッカーがあるとすぐに侵食する彼女たちのなかに、こんな優しい気持ちが育ってくれていたことが本当にありがたく、嬉しくなりました。
「人体」という秩序だった状態がなくなってしまった彼女の身体は、きっと私達の身の回りにある“空気”のように、自然を構成する原子と同じ小さな小さな原子に戻って、私や他の生徒たちの身の回りや、私たちの身体のどこか一部になってくれていることでしょう。
そして、彼女から命の一部をいただいた私の使命は、教師として、カウンセラーとして、それ以前に一人の人間として、自ら分け与え、後進の育成に携わることだと考えています。自分のまいた種が、一体いつどこで芽を出すのか、花を咲かせるのか、実をつけるのか、皆目見当もつかないのが教育であり、カウンセリングであると私は考えます。しかし、私は間違いなく、衛藤先生のコラムやメンタルの各先生方の講座を通して、たくさんの種をいただいてきました。種をまきながら、たとえ自分で成果を実感することができなくとも、いつかしかるべき時が来たら、その人の心に芽吹くもの、花開くもの、実るものがきっとあってくれると信じて、心に種をまき続けることのできる人間でありたいと思います。