Home 受講生の感想レポート 寒い日に突然独りで旅立った父からの「プレゼント」
寒い日に突然独りで旅立った父からの「プレゼント」

福岡校  小田 一人さん(45歳 男性)


私は、日本メンタルヘルス協会の講座に通い始めてから、両親との関係、妻との関係、子どもとの関係を見つめなおすことが出来ました。

私は高校を卒業したのち、コンピュータの専門学校に進みました。中学や高校の先生からは大学へ行き教師になれと勧められましたが、大学で学びたいことがありませんでした。そして、当時私は大人に対して不信感が強く、大人の言うことを信じられなくなっていました。「いい大学へ行って、いい会社へ就職して」言われれば言われるほど頑なに拒んで行きました。早く働いて、お金を貯めて家を出たいと考えていました。

コンピュータは、それほど好きではありませんでしたが、就職率がよさそうなので選びました。就職した当時、自分のやりたいことが見つからずに毎日モヤモヤしていたのですが、ちょうどテレビで観たグランドキャニオンに強い憧れを持ち、実際に自分の目で確かめたいと思ったので、それからはお金を貯めてアメリカへ行く計画を立てていました。

しかし、私が就職して働きはじめると両親は離婚をしました。私が高校生の頃から、父と母はうまくいっておらず、母は、時々家出をしていたので、離婚は時間の問題でした。私は、母と一緒に暮らすことになりました。母は、体調がいい時は知人の仕事の手伝いをしていました。

母は、私に対しての依存心が強かったため、私は正直あまり家にいたくありませんでした。そのこともあって就職してからアメリカに行くための貯金をしていたのですが、実際には貯めたお金は父の仕事で使うことになりました。アメリカ行きのために貯めたお金でしたが、父の役に立てればいいと思いました。

そして、私は26歳のときに4歳年下の女性と結婚しました。母は、私達夫婦と同居するものと決め込んでいましたが、私はその考えは全くありませんでした。そのため、母は私に対して「裏切られた」という思いが強かったようで、自然に母との距離は遠くなっていきました。妻と母との関係も良くありませんでした。

妻は、とても素晴らしい女性でした。妻も両親が離婚していたので、お互い温かい家庭をつくっていこうと話し合い、二人の娘を授かり、家族4人で幸せに暮らしていました。しかし、バブルがはじけた後、当時勤めていた会社の方向性に失望した私は、妻と相談して会社を辞めることにしました。


それから約3年間、義父の建築業を手伝いました。私の意志とは異なり、周囲の人からは跡取りと見られ始めました。仕事の現場は、一戸建ての基礎工事で義父と二人での作業です。私は、義父の言動が理解できず、一緒にいることが嫌でした。義父とは、ほとんど会話も無く二人だけの現場で黙々と仕事をしていたのです。妻は経理を担当していたので、仕事が終わって義父の家で、私達夫婦も一緒に食事をしていましたが、夕食を食べている時も会話がありませんでした。今思えば、私は義父の欠けている所しか見えていなかったと思います。

そんな義父との関係を、妻も良く思っていなかったようでした。妻の我慢も限界に来て何度か妻から文句を言われました。私は、現場での義父の事などは妻に気を遣い、話しませんでした。やがて建設業も不景気になり、仕事が減ってきたため、私は、先輩を頼りコンピュータ関連の会社に再就職しました。この転職について妻と十分話し合わずに決めたので、妻に不信感を抱かせてしまいました。新しい仕事に就くと、私はすぐに長期出張となりましたが、私も妻も、お互いを見つめ直す良い時間が取れたように思えます。

それからしばらくして、妻の体調が悪くなり膠原病と診断されました。一時、妻は精神的にも落ち込んでいましたが、一緒に病気に向かい合っていこうと話し合い、私は約2年間、大阪と東京を往復する生活を続けました。その後、福岡で勤務しましたが毎日遅くまで残業の日々が続き、私は精神的にも肉体的にも疲れ果てていました。数年先の自分をイメージした時に、精神的にボロボロに疲れている上司が思い浮かぶようになり、気付かないうちにため息をつくことも増えていました。

私は、精神的・肉体的に限界を感じ、40歳を前に会社を辞めることにしました。妻は、不安もあったようですが私の気持ちを汲んでくれました。それからいろんな仕事をしました。夜中も働きましたが、正社員でないため、経済的に家族に負担をかけることになりました。それでも、なんとかやっていけると私は勝手に思っていました。

しかし、妻の不安はどんどん大きくなっていたようです。私は、妻に対して「夫婦なんだから言わなくても分かり合える」という思い(甘え)がありました。妻から「何を考えているのか分からない」と何度か言われました。妻からいろいろ言われると、私は黙り込んでいました。反論しなかったのは子供の頃からの習慣が残っていたからだと思います。
やがてマンションの支払いも出来なくなり、マンションを出ることになりました。それでも私は、「何とかなる」と思っていました。そんな状態で、将来と私に不安を感じた妻から離婚の話がでました。私は、離婚の話は初めてではなかったので、これ以上、愛する妻や子供達に辛い思いをさせることは出来ないと思い、妻の申し出を受けました。私のわがままから家族に迷惑をかけていることを強く感じていました。

しかし、この時も、私は妻に心を開いて話が出来ていませんでした。妻は、私が離婚を受け入れたことで失望したと後で聞きました。「離婚はしない」と言うと思っていたようです。私自身は、離婚をしたいとは思っていませんでした。私は、一部始終を知ってから、自分の気持ちを妻に正直に伝えられなかったこ


とを本当に後悔しました。でも、全ては遅すぎました…。私は大切なものを失いました。妻達の新しい家が見つかるまで一緒に暮らしましたが、家が決まり妻と二人の娘は出て行きました。その連絡を職場で妻からのメールで受けた私は、ショックでした。心に大きな穴が空いた感じがしました。

その日、仕事から自転車で帰宅する途中で、横道から出てきた自動車に跳ねられました。いつもよりゆっくり自転車をこいでいたため、飛び出してきた自動車をよけることが出来ずに車道に飛ばされたのです。交通量が多い通りでしたが、運が良く後続車がいませんでしたので、病院へ行き、治療をして帰宅しました。
でも、身体の傷よりぽっかり空いた心の大きな穴の方が重症でした。私は荷物が無くなった部屋で一人泣きました。

跳ねられた時の怪我は、鞭打ち症で1ヶ月間自宅療養となりました。通院以外は外に出ることも無く、何もする気力もありませんでした。鞭打ちの症状がきつく、ほとんど毎日寝ていましたが、自分を見つめ直すいい機会になりました。
この頃が今までで一番へこんだ時期でしたが、とても大切な時間でした。もし、もっと早く日本メンタルヘルス協会で学んでいたら別の結果になったかもしれませんが、これも私の運命です。

現在、離婚して4年半が経過ています。子供達も大きくなりました。今でも、時々4人で食事や、買い物に行くことがあります。前は当たり前のことでしたが、今はとても貴重な時間です。当たり前と思って気にもしていなかったことが、実はとても幸せだと気付きました。今でも、一緒にいる時間を作ってくれる元妻と娘たちに心から感謝しています。

私と父の関係についてですが、私が高校を卒業後、父と話をする機会が増えました。男同士で共感できるところがあったと思います。私の父は、母と離婚後一人で暮らしていました。私が結婚するときは「娘が出来る」と喜んでくれました。娘が生まれたときも喜んでくれました。長女が1歳になる頃、父は仕事に行かなくなってお金に困っていました。もともと外交的ではない父は、職場でトラブルがあったようですが、父は何があったかは一切話しませんでした。私も父に話を聴こうとしませんでした。
やがて経済的に困った父は、時々、私のところにお金を借りに来るようになりました。ある日、父と口論になり、父が突然「死んでしまえばいいとやろう」と言いました。あまりに突然でびっくりしましたが、私は「死ねるもんなら死んでみろ!!」と言い返してしまいました。売り言葉に買い言葉でしたが、メンタルで勉強した今ならば、父の話をしっかり聴くことが出来たと思います。

その後、私は暫くの間、父に会いに行きませんでした。父からも何の連絡がありませんでした。そんな状態が1年以上続いたと思います。次女が誕生した頃から父とまた連絡を取るようになりました。それから父とはいい関係になれたと思います。父は、私たちに会うときはいつも笑顔でした。何かすると「ありがとう」と感謝していました。私は、そんな父が大好きでした。


数年後、父は1月の寒い日に突然独りで旅立ったのです。私が仕事から家に帰ると、長女が「不動産屋さんから電話があったよ」と教えてくれました。父が住んでいるアパートの不動産会社に電話してみると、毎月決まった日に家賃を持ってくる父が来ないし、電話をしても話中と言うことでした。私も父に電話しましたが話中でした。その日は、妻が仕事で遅いので帰ってきてから一緒に行こうと思いました。子供2人と行くことも出来ましたが、子供はおいていこうと思いました。それは、父に電話をかけた後、私には父が電話の受話器を持ったまま倒れている姿が頭に映ったからです。だとすると、父はもう・・・と思いました。

妻の仕事が終わったので、妻を駅まで迎えに行き、一緒に父のアパートへ行きましたが、電気はついていませんでした。ノックしても反応はありません。持って行った合鍵でドアを開けようとしましたが、慌てていたのか合鍵を間違えて持って来てしまい、中に入ることが出来ませんでした。私たちは一度、家に合鍵を取りに戻り、今度は妻に子供達を見ていてと頼み、私ひとりで行きました。
父のアパートの玄関を開け、中に入りました。奥の部屋に入ると私の頭に映った父の姿がありました。すでに父は冷たくそして固くなっていました。きっと父は体調に異変を感じ、救急車か私に電話をかけようとして、そのまま倒れて独りで旅立ったのだと思います。

私は、妻に連絡した後に、救急車を呼びました。救急隊の方が、死亡を確認しました。それから警察の方が事件性の確認のために、10名ほど来ました。妻も来ましたが現場検証中なので車で待機していました。検死が行われた結果、死後1日から2日と言われました。

葬儀の時、私は心の中で父に『あなたはいつも私たち家族に会うと「ありがとう」と感謝してくれましたね。子供たちは、「おじいちゃんはいつも笑っていたね」と言っています。子供達にステキな笑顔を残してくれてありがとう』と話しました。
父の葬儀の後、アパートを片付けに行きました。父の日記がありました。日記を読んでみると私が知らなかった父の行動や父の食事内容が細かく書いてありました。私たちと会った日の日記は、妻や子供達に対する感謝の言葉がたくさん書いてありました。タンスの中には、妻がプレゼントした服や下着が使われないままになっていました。父は、「ありがたくて使えない」と日記に書いていました。涙が止まりませんでした。そんな、優しい父に対して私は、「死ねるもんなら死んでみろ」と言ったのです。心の中で謝っても、父には直接謝っていませんでした。後悔しても遅いのですが、父にちゃんと謝りたかった。「親父、ごめん」と・・・。

父が亡くなる前の年の夏休みに、私たち家族は父を連れて父の故郷の宮崎に行きました。その時の、父の嬉しそうな姿を忘れることが出来ません。私が父に出来た親孝行はそれくらいです。私は、父から感謝の心と笑顔を教えてもらいました。父が残したプレゼントをこれからも大切にしていきます。ありがとう、親父。

母は、現在再婚しています。病気をして、病院通いをしていますが、相変わらず性格はきついです。母は面倒見が良い人なのですが、好き嫌いが激しいく表情や言葉に表れます。
私も、母の期待していた通りになっていないので、いろいろと腹立たしく思っているのでしょう。私は、結婚後何度も何度も親子の縁を切られました。(現在も、縁を切られている状態です)

私から連絡すればよいのですが、連絡するたびに文句を言われるので、今はめったに連絡しません。母から連絡があることもほとんどありません。母の気が済むまで、文句を言われ怒鳴られれば母の気持ちは少し収まるのでしょうが・・・。まだまだ、私は器が小さいようです。

娘達を連れて行けば喜ぶのですが、嫁姑関係も悪かったので小さい頃に会う機会が少なく、お互い遠慮気味でした。先日、二人の娘を連れて行きましたが、久しぶりに行ったことに怒っていたのか、娘も驚くほどの態度でした。きっと本心は寂しいのでしょうが、反対の態度をとってしまうのだと思います。そんな母が、可哀想に思えました。メンタルで多くのことを学び、母のことを少しずつ理解できているように思います。
私は、私を産んで育ててくれた母に心から感謝しています。今度、母に会った時には、感謝のIメッセージを伝えます。「産んで育ててくれて、有難う」と。

私は離婚後、二人の娘とは別々に暮らしています。今年の一月末に中学一年生の次女が不登校になったと元妻から連絡がありました。夜眠れなくなってしまい朝方やっと眠りにつき、昼過ぎに起きて食欲も無くて1ヶ月で約7kgも痩せたとの事でした。「無理して学校には行かさなくていいから、一緒に見守って行こう。つらいと思うけど、授業では学べないことを経験しているんだよ。あの子は大丈夫だよ」と元妻に話しました。以前の私だったら、無理矢理学校へ行かすことは無かったでしょうが、次女に直接質問していろいろと聞いていたと思います。

次女は、それまでもよく私のところに来て学校や部活のことを話していたので、今回のことで私に話しをしに来るのを待っていました。次女の様子を元妻に聞きながら、次女とはいつもと同じようにメール交換をしていました。

2月20日金曜日の夜、久しぶりに次女と二人で夕食をとりました。「明日、天気がいいけん、どっか行きたいところに行こうか?」と誘ってみました。次女は、「誰もいない海に行きたい」と言いました。翌日、次女と二人で電車に乗って海に行きました。2月の海は、人もまばらでした。二人で波の音を聞きながら砂浜を歩き、貝殻を拾ったり、砂に字を書いたりしました。次女には、いい気分転換になったようでした。少しずつ、学校でのあった出来事を話し始めました。

私は、メンタルの基礎コース前編第一回目の講座で学んだ、パッシブ・リスニング(受動的な聴き方)とアクティブ・リスニング(能動的な聴き方)を心掛けて次女の話を聴きました。次女は学校や部活で起こったことや、夜眠れない時にしていること、考えたことなど話してくれました。夕方になり、太陽が西に沈みかけていました。私は次女を誘い夕陽がきれいに見えるところへ行きました。次女と一緒に見たこの日の夕陽を私は忘れることが出来ません。その夜、次女は私の家に泊まりました。朝方まで次女の話を聴いていました。

その後も、泊まりに来た次女の話を朝まで聴きました。私は、次女の話を聴いて、彼女の気持ちをどれだけ汲むことが出来たかはわかりません。次女が、私に話をしたことで少し楽になって気持ちが整理できればよいと思っていました。私にとっては次女と共有した時間はとても貴重でした。この事があってから、離れて暮らしている娘たちが私と話を出来るように、娘たちとの信頼関係をしっかり築いていこうと強く思いました。

次女は4月からクラス替えがあったこともあり、現在は学校へ行っています。問題が全て解決した訳ではありませんが、彼女自身で考えて少しずつ答えを出しているようです。これからも、娘が少しずつ成長していく姿を見守っていこうと思いました。私自身も、次女が不登校になるとは想像もしていませんでしたが、今回の経験で「聴く」ことがいかに重要であるかがわかりました。なぜ、基礎コース前編の第一回目の講座で「聴き方」を学ぶのか、カール・ロジャース博士の「正そうとする前に、まずわかろうとせよ」を学ぶのかが経験を通してわかりました。


次女と一緒に見た夕陽─


私は、日本メンタルヘルス協会で心理学を学び多くの気付きがありました。自分自身を振り返って、たくさんの出会いと別れがあり、泣いたり笑ったり感動したりしました。そして、多くの人に支えられながら生きていることを再認識しました。これから先、日本メンタルヘルス協会で学んだことを活かし、私が大好きな笑顔があふれる社会になるように、私に出来ることを見つけて一日一日を大切にしながら生きていきます。


そして、子供達に、生きていることがどれだけ楽しくて、どれだけ素晴らしいことかを見せられる大人になります。

 

~受講生のレポートより抜粋~
  紹介スタッフ:野本

小田さんの人生に触れさして頂けたレポートありがとうございました。
福岡校で受講の度にお会いする小田さんはいつも明るく満面の笑みで挨拶をして下さいます。
そんな笑顔にはご家族のこと、ご自分の人生を振り返って良いこともそうでないことも
受け止めているからなんだとレポートを読ませて頂いて改めて思いました。

講座を受けて一番難しさを感じるのは<聴く>ことだと、多くの生徒さんからお話をお聴きします。
頭で分かっていても、つい良かれと思ってアドバイスや助言、時には命令や指示をしまっている時がありますと。
僕自身もカール・ロジャース博士の「正そうとする前に、まずわかろうとせよ」
このことを一番最初に学ぶ意味を、講座を聴くたびに気付かされます。
どんなに分かり合おうと思っていても分かり合えないことがあるのが人間。
その価値観が違う相手の話を相手の立場に立って聴こうとするのがカウンセリングであり
健全なコミュニケーションなんだと。

きっとそれは、いっぱい失敗をしたからこそ気付くことができたり、
その意味の深さを感じることが出来るのかもしれないと思います。

自分が無知であることを知る<無知の知>であることが大事なのです!と、
衛藤先生がいつもおっしゃっています。まさしくその通りなんだと思います。

また、お母様との関係、奥様や娘さん達との関係の中で、
欠けている所ではなく足りているところに感謝できる小田さん。
そしてお父様との別れ。残された日記にあったお父様の感謝の気持ちや思いを、
真摯に引き継いでいる小田さん。
日々の笑顔の裏側を教えて頂いたエピソードでした。

衛藤先生が講座の中で、インディアンは<死は終わりではない、ストーリーは終わらない>と言います。
「死は死者の為に意味があるのではなく、生者の為にあるのでしょうね!」とおっしゃっています。
大切な人との別れは、その人にしか分からない悲しみ寂しさがあると思います。


ただ、その中でどんな意味を持つかはその人にしか感じることができないのも事実なのですよね。
お父様から「感謝の心と笑顔を教えてもらいました。」と受け止めた小田さんに感動しました。

そして奥様との離婚のことも「もっと早く日本メンタルヘルス協会で学んでいたら
別の結果になったかもしれませんが、これも私の運命です。」との言葉。
たしかに、もっと早く知っていれば!学んでいれば!と思うことは、僕自身も学べば学ぶほど痛感します。
ただこれこそが<無知の知>であることなんでしょうね。
それを受け入れていくことで人生に深みを増していくことなのだと講座で教わりました。

多くの方の人生を知れば知るほど、同じ人生なんか無いんだ!だから誰とも比べられない人生を
自分も歩んでいるんだ!と、今回小田さんのレポートを通して改めて学ばしていただきました。

このレポートを書かれた後、お母様に「産んで育ててくれて、有難う」と伝えることができたそうです。
「父には直接伝えられなかった分、母に伝えられて良かったです。」とおっしゃっていました。

そして現在、小田さんは下の娘さんから「お父さんのところに行きたい」との申し出で、
一緒に生活をされています。
多感な年頃の娘さんにそっと寄り添ってサポートできるお父さんとして、
笑顔と感謝を日々大切にされてる小田さんを心から尊敬しています。


また、福岡校の会場で小田さんの笑顔に逢えるのを楽しみにしています。
素敵なレポートを本当にありがとうございました。