Home 受講生の感想レポート 愛する息子に嫌われた理由が分かった時
愛する息子に嫌われた理由が分かった時

大阪校  渡邉 清彦さん(40歳 男性)


「大阪府警本部 組織犯罪対策課から会社に電話がありました 折り返し連絡が欲しいそうです。」外出先の私にそう連絡があった。
 意味が分からないし 心当たりも無い。「誰宛?」と尋ねると「渡辺さんをフルネームで指名されました」との事「何?」

 昨年の10月だったと思う。みなりのいい初老の紳士から「おたくの開発工事に伴う解体工事の振動が起因し、事務所の一部が壊れたので保障をして欲しい」と連絡を受けた。
 直ちに不具合箇所の原因を確認し 弊社の工事が起因した不具合であれば当然保障いたします」そんな内容の返答をし、保険会社と施工会社に調査と修理の指示を出した。
 相手の言い分は筋の通ったもので当然の要求だったので、「壊したのなら詫びて直す」こちらも当然の対応を進めた。 
 先方の希望もあって私が窓口になった。しかし補償交渉も日を追ううちに要求は多くなり希望される補償内容も大きくなっていった。
 そんなころの電話だった。

大阪府警の担当者は「あなたが暴力団から脅迫され、不当な請求をされているとの通報を受け捜査した結果、確かに土地の所有権が暴力団の親族に変更され、最近、近隣補償の交渉がある」との近所の証言があった。捜査に協力して欲しいとの事だった。
 あの紳士が「なぜ?」理解できなかったし、納得できなかった。
 ためしに私は、補償交渉の一部を蹴ってみた。すると突然「みなりの良い初老の紳士」が「肉食のゴリラ」の様になって机を叩いて怒りだした。

 私の仕事は不動産開発。土地や建物を購入し開発や運営をする。賃貸の管理もあれば解体、建設工事もある。たくさんの人と関わり無から最善を創造する仕事が、私は大好きだ。
 ただ、その沢山の人との関係の中には、まれに特殊な問題が生まれる。

 以前は、身分を偽って賃貸マンションに入居してきた暴力団員に住居の明け渡しを交渉した事もあった。
 ある時は新築の分譲マンションの購入者が暴力団の関係者だと判明し、契約の解除を迫った。その際は、事務所に乗り込み軟禁なのか脅迫なのか分からない交渉を5時間ほど行った。あの時は小額ながら違約金もいただいた。
 
 そんな仕事も自分は、それほどストレスに感じていなかった。それが自身のビジネスで自分の方が正しいとの信念さえあれば、時折「大変だな」とは思うが、それ以上のストレスではないと思っていた。
 多分、ストレスは少しずつ私の体を侵食していっていたのだと思う。ステージも進んでいたのだと思う。
 お酒が無いと眠れなくなり主治医から眠剤を処方されるようになり些細な事でイライラし、イライラは時折爆発した。
                                       
 そんな中、実はある会社の代表に就任した。資本金2億3千万円。数年前までの売上は、億三桁に届く勢いで、親会社はジャスダックに上場した歴史のある企業、連結を外してその法人自体の上場も検討された事がある実績のある会社。
 でもそれは、私が代表に就任する前までの話、私が代表に就任した時は、負債総額約60億円。法人の債権者だけでも100社を超え親会社からは、業績悪化を理由に連結も外されていた。 

 私の前の代表者は大阪地裁に自己破産を申請して雲隠れ中だった。自己破産の説明を一切受けていなかった株主は激怒し臨時の株主総会を開催。株主様の一人が私の縁のある方で何度も、何度も、何度も熱望され、その熱意に負け、開かれた臨時株主総会で私は、代表取締役に就任した。
 
 代表に就任後、地裁に申請中だった破産申し立てを取り下げ「再生」を選択。従業員はもちろん取締役、監査役の全員を解任、取締役会も廃止、私が解任するまでも無く現実的に空中分解状態だったが。全て自分の責において事が進められるように株主様には承認をもらった。
 
 家族には「仕事だから大丈夫だよ」と大まかな説明しか出来なかった。
 やがて債権者が自宅に来るようになり、督促が自宅に届くようになり、しばらくの間、落ち着くまではと家内は実家に帰した。
 
 誰かが作った60億円の借金返済の為、弁護士や税理士からなる債権整理の専門家で社外に特別チームを編成し必死で働いた。怒鳴りあい、喧嘩、そんな交渉が続く日々。そんな生活の中で私は次第に、おかしくなっていたのだと思う。

 こんなに働いて、それなりに成果も出して、でも誰にも評価されない日々、罵倒され、ののしられ、気力がそぎ落とされていく。
 10億円ほど返済ができた頃から何度か「死にたい」など考えた。気力がなくなり原因の分からない湿疹が体中にでき始めた。

 そんな頃、たまたま縁があって「ウィンドサーフィン」を始めた。いい仲間も出来た。まがりなりにも今まだ仕事が出来ているのは、偶然のこの「出会い」のおかげかもしれない。
 時間があれば海に行き、必死でセールやマストにつかまり、海に投げ飛ばされ、ボードにしがみ付き、風になり海の上を飛んでいく。その時間だけが、全てを忘れる事ができた。
 食事が取れないほど体を動かして、体をイジメてヘトヘトにならないと、内側から自分を壊しそうだった。

 そんな日常、たしかに仕事はハードだったが、本当に私を追い詰める原因は仕事ではない、本当の原因は身内(家族)にある事に少しずつ気づき始めていました。

 どんなにハードな状態でもそれが仕事で「善」が自身の中に在ると思っていれば、それほど壊れなかった。
 私を壊し追い詰めたのは、身内で私の一人息子。イライラさせ限界まで私を追い詰める三歳児。
 なつかない。私に近づかない。それどころではなかった。彼の物を触ると怒られ、「パパは見ないで」と言われ、抱く事も許されず、「パパは嫌」「あっちに行って」
 一緒に食事するのも寝るのも嫌、朝 起きると顔を半分だけ壁から出しリビングにいる私の様子を探る、目が合うと泣いて家内にしがみつきに行く。
 
 当時の私は大好きなオモチャで彼の気持ちを引くくらいの事しか術が無かった。
 欲しいものを聞き出し買って帰る、「拓、買って来たよ」彼は私の所に来ない。「拓、欲しがっていたオモチャ買って来たよ」彼は「ママがもらって」「ママが開けて」絶対に私には近づかない。何度も何度もそんな事を繰り返した、でも結果はいつも同じ。いつしか三歳の彼の部屋はオモチャで一杯になった。

 私は彼に笑って欲しかった。彼を抱きしめたかった。甘えて欲しかった。彼が大好きだから、彼のことが可愛くてしかたないから、愛しているから。

 「どんなに拒絶されても教育はきちんとしなければ」そう思い、イライラする気持ちを抑え食事のとり方を彼に諭す、「食べ物は残しちゃ駄目」「早く寝なさい」「遊んだら片付けなさい」そのたび彼は泣く。
 気持ちが安定している時はなんとかセーブ出来るのだが冒頭に書いたような極限の状態では私を「パパは嫌」「パパ黙って」全否定し泣く彼が許せなくなる。

 結果、爆発する。手を出す事はないが、周りに居る大人の時間も一緒に止まる。
 家内の家族は「大人だってあんな風に怒られたら動けなくなる。拓ちゃんは大丈夫?」そう相談していたらしい。興奮すると、つい故郷の言葉、広島の呉弁に近い瀬戸内の方言になってしまうからだったようだ、自己嫌悪。
 
 新潟に家族で旅行に行った時は彼を雪の積もるマンションのベランダに立たせた。些細な事で泣き出し泣きやまない彼に「出て行け!父さんが出ろと言ったら出なさい」怒鳴り上げた。
 三歳の彼は自分で歩いて腰まで雪につかるベランダに出て行った。

 仕事には自信があった、私の代わりは居ない。どんな状況であろうと私は負けない。
 なぜなら、私は拓馬の父親だから。彼に見て欲しかった。かつて私の父がひたむきに働く姿を私に示したように、そして父のように愛されたかった。
 それだけだったのに、いつしか一番大切な家族を傷つけ、自分自身も壊していた。抜け出せない自己嫌悪のスパイラル。

 ある日の講義で衛藤先生がこう言われた「私の家はみんな楽しそうですよ、私が楽しそうにしていますから」軽い衝撃が私に走った、道の向こうに小さな明かりが見えた気がした。
 
 翌朝、彼が起きてきた。いつもの様に寝室のドアから顔を半分だけ出してリビングにいる私を観察している。
 オーバーなくらい大きなアクションで手を振り甲高い声で彼に言う「おはよう。拓馬」彼は「嫌!見ないで」母親の足元にしがみ付くためキッチンに走っていった。
 いつもと同じ朝、しかし少しすると変化が起きた。ニュースを見ながら朝食を取る私の膝の上に彼がだまってよじ登ってきた。
 私より家内の方がビックリしていた「何を買うって子供と約束したの?」そんな事を言っていた。

 そんな事だったの?彼は怖かっただけなの?朝からその日の行動を頭の中で整理し、ニュースを見る私の顔はきっと眉間にシワがより三歳の子供が甘えられる状況ではなかったんだと気が付いた。
 一日が終わり帰ってきた私の顔は、上手く行かないスケジュールにイライラしとても笑顔は無かったと思う。

 膝の上の彼を抱きしめた「拓馬、ごめんね。パパはお仕事の事考えて怖い顔になってた?でも拓の事が大好きで、だから一生懸命お仕事をしているんだ。怒っている訳じゃないんだけど気をつけるね。拓ちゃんと仲良くしたいから」彼は何度もうなずいた。
 
 あの朝の事は今でもはっきり覚えている。食事も身支度も終わり出勤する私を送りに「マンションの下まで行く」と言い出し、走り出す私の車を「パパ、行ってらっしゃい」大きな声で叫びながら手を振り、追いかけてきた。

 その日を境に私と彼の関係はゆっくり変わっていった。
 「パパ一生懸命働いて買ったオモチャ片付けられて無いと大切にされてないのかな?喜んでくれてないのかなって思って悲しくなる」
 「拓が遅くまで起きて遊んでいたら、明日のおでかけしんどくならないかなって心配になるんだ」
 「お米もお魚も葉っぱもみんな生きていたのに拓に食べられずに捨てられると思うとパパ胸が痛い。命を大切にして欲しいから」
 メンタルの講座で習ったIメッセージ(自分の気持ちを素直に伝えるメッセージ)を、彼にたくさん伝えた。
 
 何度もうなずく小さな体、何度も心の中でつぶやいた「拓、ごめんね。沢山傷つけたね」

 手偏に石で開拓の「拓」。手で石を拾い、荒れ野を開いて行く「意」。そして、その野を駆けぬけるよう願いを込め「拓馬」と私が彼に名づけた。誰かのお役に立てる時、それがどんな場所、どんな時だろうと拓馬でいられるようにと。

 私は彼を愛している。

 メンタルで学んだ事で人生が変わり始めた。一部ブロックの移動も車だった私が、季節を感じながら歩いて出社している。一時間ほど歩いて疲れるとバスに乗る、最初にバスに乗った時はお金の払い方も分からなかった。
 通勤途中iPodで聴く音楽は一番リラックスできる気がするJAZZ。主治医に眠剤の処方は断った。仕事は依然ハードだが今は眠れるから。

 誰かのお役に立てるようにと願い、息子につけた名前は、私、自身に対する願望や夢だったんだろうと思う。わたしが荒れ野を開き駆け抜けなければ、今はそんな気がしています。



 

~受講生のレポートより抜粋~
  紹介スタッフ:鈴木

いつも、一生懸命に受講して下さっている渡辺さん。誠実なお人柄が伝わってくる方です。
 レポートを拝見させて頂き、お仕事上で精神的に追い詰められる経験をされていた頃、本当にお辛かっただろうと、身につまされる思いでした。
 私も、最初に勤めた会社の上司が大変厳しい人で、怒鳴声をあげることは日常茶飯事。
 感情が高ぶると、机を叩きながら大声を出し、物を投げつけられることもありました。

 「パワハラ(パワーハラスメント)」などの言葉が、もちろんなかった時代。
 この厳しさに耐えられなければ自分は成長できないと信じて、毎日を過ごしていたあの頃。
 でも、10年もそんな生活を続けていると、心と身体が悲鳴をあげ始めました。
 渡辺さんのレポートを拝見し、当時の自分を思い返しましたが、渡辺さんの過酷さはそれ以上だっただろうと思いました。

 そんな中でも、渡辺さんは自分自身の心と向き合い、自分の苛立ちの本当の原因は息子さんとの関係にあることに気づかれていったことは、なかなか出来ない事だと思いました。

 人間であるからこそ、感情が高ぶることはあるし、それをぶつけてしまうこともあります。
 息子さんに怒鳴り声をあげてしまうのも、つらい仕事をこなしても周囲から認められず、家でも息子さんが自分になつかない・・・きっとご自身の心の居場所が無くなっていたんだと思います。

 でも、どんな時も渡辺さんの気持ちの中で、揺るがずにあったのは、
 息子さんを「愛している」という気持ち。
 息子さんの「笑顔」がみたい、「喜んでいる顔がみたい」ただそれだけ・・・

 その気持ちを持ち続けていたからこそ、衛藤先生の言葉に「ハッ」と気づかれたんだと思います。
 そして、ご自身の行動を変える勇気を持っていらした。
 渡辺さんはそこまで意識されていなかったかもしれませんが、一番大切な家族との関係を良くできるなら、自己嫌悪のスパイラスから抜け出せるなら、何でもやってみよう、そう思っていらしたのかもしれません。

 教室で拝見する渡辺さんの笑顔は、とてもやさしくステキな笑顔です。
 息子さんも、きっとお父さんのこのステキな笑顔を見ることが出来て嬉しかったのでしょう。
 そして、お父さんからのIメッセージの数々。
 その言葉を聞いて、息子さんは、自分はお父さんから「愛されている」と感じていると思います。

 発達心理学の講座の中で語られる「自己信頼感」。
 自分は愛される存在だと認識できること。心の発達過程において一番大切なものです。
 息子さんはご両親の愛情をたっぷり受けながら、自己信頼感を獲得されていくことでしょう。

 衛藤先生が常におっしゃられる「笑顔の大切さ」と、大人が「人生を楽しむこと」
 そうすれば、子どもたちも、未来に希望を持って自分の人生を歩んで行かれる・・・・
 渡辺さんのレポートを読んで、この衛藤先生のメッセージの重みを改めて感じました。

 渡辺さん、ステキなレポートを本当にありがとうございました!