東京校基礎コース修了 佐藤亜弓さん 28歳
今がハッピーになれば、過去の思い出もハッピーに塗り替えられる
私は父母姉の4人家族で、転勤族の家庭で育ちました。
いつも家族一緒で、小さな頃は特に、母子の時間がとても濃かったと思います。
私たちが小さな頃は、父は毎日残業で夜遅く土日はゴルフで、あまり家にいませんでした。
なので、その頃の母は一人で必死に2人の娘を育てていたのだろうと思います。母は3人姉妹の真ん中で、一番自立心が強かったと自分で言っていました。
長女は無条件に可愛がられ、末っ子は体が弱かったため大切にされ、真ん中が一番つらいよ、とも。
きっと寂しい思いや悔しい思いをたくさんしてきたのでしょう。
母方の祖母は、いつも憎まれ口を言っているような人でした。
素直に人を褒めたり、人の話を聞いたりする代わりに、冗談を言ったり、からかったりする人でした。
子どもの頃は、「たまにしか会わないのに、なんでこんな風に言うんだろう」と、からかわれるのがとても嫌で苦手な祖母でした。私の母にも、そういう負けん気の強い、素直じゃない部分が多々ありました。
母だけでなく、母の姉妹もそうです。でも、特に母は、転勤族の妻として、知らない土地で子育てをするプレッシャーや他の姉妹よりも上手くやってやるという思いが強かったのだろうと思います。
私たちをとても厳しくしつけましたし、こうあるべきという母の信念を植え込もうとしました。
親子の上下関係は絶対でした。私と姉のビリーフ(物事の受け止め方)形成には、母がとても強く影響を及ぼし、それによって、私たちの生き方にかなり大きな影響を及ぼしたと思います。
そして、そのビリーフがイラショナル(自分自身の思い込みによって形成された物事の受け止め方)なものだと気付くにはとても長い時間が掛かりました。私と姉は3歳違いで、性格もまったく違います。
姉が「静」なら、私は「動」。
しかし、姉の静かな性格は、本来の性格ではないのではないか、と思います。
母が、長女である姉にはあまりに厳しくしすぎて可哀想だったと言って負い目を感じていたからです。
姉は自分の意見を強く主張したり、感情を表に出したり、あまりしない子でした。
妹の私から見ても、もどかしいくらい、人付き合いが苦手のようでした。 これは、今年のお正月に姉から聞いた話ですが、姉はことあるごとに母から、「あんたみたいな子は、社会に出てもなんの役にもたたない人間だよ」と、言われていたそうです。
当時の私はまったく気付いていませんでしたが、それで納得ができます。
姉の引っ込み思案で、不安げな性格は、きっと母からの間違ったビリーフが植え付けられていたのだと。私はというと、元来の自由奔放な性格から、叱られても叱られてものびのび成長しました。
しかし、やはり躾はとても厳しく、ほとんど虐待と言えるほど、殴る蹴るは当たり前、言われたことが出来ないと包丁が出てきて脅されることはしょっちゅうでした。
その頃の母の口癖といえば、「2回も言えば、猫でも分かる。それでも分からないのは、猫以下だ」私たちは、ことあるごとにそう言われました。あぁ、私は猫以下の人間なんだ…。
小学生の頃は、習っていたバレーボールに夢中になり、将来の夢はバレーボール選手。
でも、ある時、母が言いました。
「なれもしないのに、そんな風に言うのはやめて。恥ずかしい。」夢を見るのは自由なはずなのに…。
どうしてお母さんがそう言うの…?テストでいい点を取った時は、「みんなも良かったんでしょ?平均点はいくつだったの?」まず褒めてほしかった…。
頑張ったねって認めてほしかった…。どれだけ頑張っても承認されない自分、足りないところばかり指摘される自分って何なのだろう…?中学生になって、初めてボーイフレンドができた時は、「男狂い、不潔」と罵られました。
なんで?ただ一緒に帰ったり、電話をしたりしているだけなのに…。そのくせ母は、自分のせいで引っ込み思案にさせてしまったという負い目からか、姉にはとても気を遣っているのがわかりました。なんでおねえちゃんなら信じるの?
なんでおねえちゃんだとすぐ許せるの?この人は、私の何を知ってるの?
この家族は、絶対私を理解してくれない。本気でそう思いました。それからも私は母とケンカばかり。
ある大晦日、家族でテレビを見ながら、「私は英米文学が好きだから、翻訳されていない多くの小説を読みたいから、将来は翻訳家になりたい」と私が言ったことがありました。母は、すかさず、「なれるわけないでしょ。」私は、内心またかと思いました。
その頃には、だいたい母の反応はわかっていましたし、別に解ってもらえなくたっていいし、と思っていました。しかし、今まで母に意見したことが無かった姉が、その時は、「お母さん、そんなこと言わないで!」と、言ったのです。私は、母に言われたことよりも、姉がかばってくれたことが嬉しくて嬉しくて、その場で号泣しました。姉は私の気持ちを分かってくれていたんだ。
姉はいざというときには、味方になってくれるんだ。
それまで、感情をあまり表に出さず引っ込み思案な姉のことを、私はどこかで馬鹿にしていました。
だから、メンタルの後編講座の音楽療法の最後に行うワークで、パートナーの前で仁王立ちになり、相手を見下ろしたとき、相手の困惑した顔が姉にしか見えなかったのです。
私は自分でも、姉は大切な存在だと、尊敬できる人間なのだと分かっていながら、母に意見しない姉が歯がゆく、姉をどこかで馬鹿にしていたのです。それからも、母との関係は平行線のままでした。
大学を卒業して、すぐ結婚することになった時も、むしろ清々していました。やっと、自分を認めてくれない親から解放される。
やりたいことを否定されて脚をひっぱられることもない。結婚相手の夫は、私とは正反対で、常に認められ、褒められ、信頼される家庭で育った人でした。
夫は当然のように、私を認め、褒めてくれました。
褒められることに慣れていない私は、最初はとても違和感を覚えました。
しかし、認められることがこんなに嬉しいことなのか、褒められることがこんなにやる気を起こさせることなのか、と初めて実感しました。
けれど、私は、うまく夫を認めたり、褒めたりすることができませんでした。それくらいでは褒められないよ。
もっと頑張れるでしょ。
考え方が甘いんじゃない?自分はいつも認められたかった、褒めて欲しかったのに、ハードルがいつも高い位置に設定されていたために、私も相手に対して高い水準を求める人間になっていました。
だから、夫が褒めて欲しい時に褒めることは、最初はとても苦痛でした。自分の心の中では、これくらいでは褒めるに値しない。
こんなことで褒めていては、夫が駄目になると思っていたからです。
また、夫の母に対しても、反感を抱きました。この人が甘やかして育てたから、夫は褒められたがるんだ。
夫が母子一体感(子どもがお母さんは自分のことを言わなくても分かってくれる、自分の思い通りに動いてくれるはずと期待してしまう、甘えや依存心のこと)が強いのは、甘やかして育てたからだ。きっと私は義母にも、夫と同じように私のことを認め、大事にしてほしかったのだと思います。母子一体感が強かったのは、私の方でした。やってもらって当たり前。
感謝されて当たり前。
こうあるべき。
こうでなければいけない。自分が認めてもらえなかった、褒めてもらえなかったという悔しい思いから、相手に求めるばかりの人間になっていました。メンタルでこの母子一体感やビリーフの話を聞いた時も、あの人は母子一体感が強い、あの人はこういうビリーフがあると、まるで自分が当てはまるとは、思いもしませんでした。それに、人を素直に褒められない自分、認められない自分は、親のせいだからしかたないといつも思っていました。
でも、衛藤先生が担当した『人間成長の発達心理学』を学んだ時、「人は人と関わることによって、いくらでも成長・変化できる」と聞いて、頭を殴られたような衝撃がありました。「何回でも生まれ変われる」
「人生は塗り替えられる」
「今が幸せだと思えれば、それまでの紆余曲折の人生もハッピーに変えられる」親は親で、若かったせいもあるし、その時その時、一生懸命育ててくれていたんだ。
今の私は、親のせいじゃない。
自分で変わろうとしていなかったせいだ。基礎コースの後半でやっと自分を見つめることができました。
今も、こうやってレポートを書きながら、自分はこんな風に思っていたんだと発見もありました。
これからは、もっともっと家族に思いを伝えていきたいと思います。
私から変われば、きっと家族も少しずつ変化してくれるのではないかと思います。「人間は何度でも生まれ変わることができる」「今がハッピーになれば、過去の思い出もハッピーに塗り替えられる」のだから。