名古屋校基礎コース修了 武田由果里さん 33歳
本当は、生まれたときから、ずっと幸せだった
その日も、いつもと変わらない、1日の始まり。
・・・のはずだった。
いつものように明け方4時50分のアラ-ムでベッドから這い出て、旦那さんのお弁当を作るべく、料理をし始めようとしたとき。
お弁当を作ろう。作らないと。それから急いで洗濯物を干して、支度して6時には、近くにある実家へ行って犬の散歩をしないと。
それから出勤、あれとあの仕事を昨日考えておいた段取り通りに片付けて、ああして、こうして・・・。
しないと。 しないと・・・。
早く。 早く。 早くしないと・・・。しかし、自分の意思と体が真っ二つに分断されたかのように、自分の体が自分の思うように動かなくなった。
目には見えない何かの力で上から体が押し付けられるような、いや、押し潰されそうな。
そしてそのままズブズブとキッチンの床からめり込んで、地球の裏側まで行ってしまうのではないかとも思える、物凄い、物凄い重たさ。
体が「意志」とは裏腹に、
「立てない。・・・・立ち上がれない・・・。」今思えば、「もうやめとけ」と、自分の体がブレ-カ-を落とした瞬間だったと思う。
パニックになる気持ちが治まりつつある頃、ようやく壁や扉の取っ手に掴まりながら、持てる力を何とか使い、よろり、よろりと立ち上がった。
・・・さすがに、これはいったい・・・。と思い、恐る恐る心療内科へ行くと、医師から「うつ病です」との診断。
しかし私はそう言われた瞬間、自然と涙が溢れ、止めることができなかった。
私はうつという、ひとつの病気なんだ。
だったらもう、「我慢」するのを、やめてもいいのかもしれない・・・と。私にはひとつ年上の姉がいる。
幼い頃から、自分は姉より劣っていると思ってきた。
就学前の幼い頃、姉にくっついていく形で、姉の友達に一緒に遊んでもらっていた。
そして幼子の1歳、2歳の差とゆうのは体力や知力も大人のそれよりも顕著なんだろう。
一番年下だった私はいつも「皆の足手まとい」になっていると、子供ながら感じていた。
「もう(姉)ちゃん、ゆかりちゃん(私)連れてこないでよ―」
などと、子供にありがちな、悪気はない、言った子にしたら、次の日には忘れてしまっているであろう事を言われた覚えがある。
その頃から、「私は、必要ない子なんだ・・」という思いが少なからず芽生えていた。姉は勉強ができて、生徒会とやらをやったり、友達も多く人気者で、なんだか目立っていた。
姉は小学5年生の時に、ある影響を受けて、オペラ歌手になるとゆう夢を決め、それに専念したいからと、中高一貫の私立中学に進学した。
私はその時子供ながら、姉もまた同じ環境で育ってきた「子供」であったのに、しっかりした意志と目標を自らかかげた、とゆう事が、衝撃だったのだ。
きっと、姉が産まれる時、母の胎内にあった、「頭いい成分」みたいなものを姉が全部持ってっちゃったんだ。
だから、私は姉と違って私は何もないし、何もできないんだ・・・。
姉のほうが優れているから、親も姉のほうを愛してるんだ。
だって、姉のほうが。
姉のほうが。
姉のほうが・・・・。その時から自分の中に産まれた強烈な劣等感は、日に日に膨れ上がり、やがて見えない重たい、重たい手枷(てかせ)足枷(あしかせ)となり、それは日々重さを増し、挙句の果てには自分の知る所なく体の一部になっていったのだと思う。
姉が東京の音大に進学するため実家を離れ、いい先生に学ぶために留学、留学、レッスン、レッスン・・・。
「姉には夢がある。そしてお金もかかる。だから私には親の負担がないようにお金がかからないようにしなければならない・・・姉が実家を離れたから、私はどこか違う土地の学校に行くことや、一人暮らしを望んだらダメなんだ。地元から、実家から、親から離れてはいけないんだ・・・。」今振り返れば、親は私に何も強制も強要もしなかった。そして十分愛してもくれていたはずだ。
しかし、姉が「自分自身」を決めた幼いあの日から、私は姉とは逆に「自分自身」を封印する事で、親から愛してもらえるんだ、と自ら「勝手に」思い込んだ。自分が「どうしたいか」より、どうしたら親にとっていいか、姉にとって都合がいいのか。それが全ての判断基準となり、その流れで私は親の経営する会社で働き、そしてまた、働けば働くほど、「これが親の為になるんだ。姉より親の為になることをしたら、優秀な姉よりこんな私でも愛されるんだ・・・」
そんな一心で、文字通り朝から晩まで人の何倍も仕事をし、消耗するだけの日々を過ごした。
今振り返ると、消耗して消えていったのは仕事や日々ではなく、自分自身の心をすり減らし、自分の心を消していくかのような行為だったと思う。そしていつしか、次第に自分を「封印」した私は、「私を」見失い、自分がどうしたいのか、何をするのが好きなのか、挙句の果てには今、私は何が食べたいのか、さえ判らなくなっていた。そんな中、自分が「どうしたいか」判らないまま、「何か」を変えなければ、という焦燥感に囚われ、長い付き合いの彼氏との結婚を決める事となった。
もしかしたら、「私は一体どうしたいのか」という自分に対する問いの先にある、「自分の気持ちと向き合うこと」との恐怖から逃げる為に、追い詰められた果ての逃げの一手だったのかもしれない。しかし、それはやはり小手先だけの事であり、結婚という、それだけでも人生において大きな意味を持つ、その結婚式のまさに前日だった。
数年後、父は社長を引退し、会社をこれから次の社長として任せていこうと互いに約束し、父が信頼していた筈の、その人間の裏切りに合うとゆう事と重なった。親は、「老い」を日々実感し、疲れた体で持っていた荷物を、もう少しで降ろせる、と安心しかけたであろう時に、その人の、不正な数字の操作によって、会社のお金、そして仕事も人材も、失った。最初は、父と母が二人三脚で小さな小石を1つ1つ積み重ねて少しずつ高くなっていくように、丁寧に少しずつ時間を掛けて信頼と実績を得て、出来上がっていった会社だとまわりの人たちから聞かされていた。
それが私自身も父や母の背中を見て仕事をし、感じていたからこそ、がむしゃらに仕事を頑張る事ができたのかもしれない。それが一瞬で蹴散らされただけでなく、このまま、住む家や、何もかも失ってしまうかもしれない、という恐ろしい恐怖の闇に父と母、そして私自身も飲み込まれた。
いつもにこにこ笑っていた父から、笑顔が消えた。その彼の不正操作によって出た損失で、関連する人達に迷惑をかける事だけはできない。
どんな苦しい状況になろうと父はそういう人間だった。おそらく毎日が深い苦しい闇だったであろう、そんな親に少しでも安心して欲しくて、私は以前より更に、自分を無視し、元気な「振り」をした。
全力で、した。
そしてそれまで以上に加速度を増して突っ走った。そしてそんな日々に訪れた、体からの強制終了を告げる、うつとゆう診断。それは、自分で自分の気持ちに耳を傾けようとしなかった、長年のツケがまわってきたようなものだと今になって思う。両親は不仲で、昔から私は二人の顔を伺いながら、全神経を尖らせては、食事中など、「場を和ます」ことに集中していた。
それは大人になった今でも変わらない。
本当は、実家に居ると、息苦しかった。いや、息苦しいんだ。
でも、私は実家から離れてはいけないんだ。
母が私に言う、父に対する悪口を聞くのが嫌で仕方ないのに・・・
その頃すこしずつ、自分の気持ちが見え隠れしてきたのを覚えている。そして病院へ診察に通ううち、ある意味当たり前といえば当たり前である、あることに気がついた。
病院は、睡眠、だるさ、やる気が起きない等々の体に起きる症状は「薬」とゆうもので改善してくれるけど、「こころ」の部分は治してくれないのだな、と。
「こころ」の部分はカウンセリングとゆうものがあるらしい。
でも私はそれでどうしたら「こころ」が楽になる?何かアドバイスが欲しい・・・?
自問自答を繰り返し、突き詰めていくうちに辿り着いた答えが「自分のこころは、結局は自分でしか治せないんじゃないか」と。いくら誰かに「為に成る」事を言われたとしても、自分自身の心がその方向を向かないと、水が油を弾くように、何も心に影響しない。響かない。染み渡らない。
そして心をその方向に向ける事が出来るのは、自分自身に他ならないのだと・・・。しかし、その答えに辿り着いたものの、長年同じ方向を見続けていた、凝り固まった心の方向を自分で変える術(すべ)が判らず、自問自答の輪の中から抜け出せることはなかった。結局は苦しい思いを引きずりながら、病気を親に打ち明けることもせず、鉛のような体を引きずり、自分で自分に「私がこんな事でどうする。やるんだ!やるんだ!」と叱咤し、無理矢理どうにかこうにか仕事をし、日々過ごした。
しかし、これが永遠に続くのかと思うと、その時の私にあったのは、ただ、絶望の二文字だった。「心って、なんて複雑なんだろう。凝り固まり、目には見えず、幾数億本もの細い細い糸が複雑にからまってしまっているような自分の心を、どうやってほどいていけばいいんだろう・・・・」そんな思いから抜け出せない中、メンタルヘルス、文字通りこころに関する体験講座があるよ、と誘って頂いたのだ。
紹介してくれた方は、研究コ-スを卒業された方だった。
そこへ行けばその時の私が、知りたくて知りたくて仕方なかった「心」とゆうものの正体が、少しは判るんじゃないか・・・・。期待と、半分はすがるような気持ちで、鬱々と鉛のような心と体を抱えて過ごしていた毎日から、恐る恐るだったものの、一歩前へ踏み出し、日本メンタルヘルス協会の体験セミナ-を受けるきっかけとなった。当日、紹介してくださった方を絶対的に信頼はしているものの、「セミナ-」と名がつくものに対して少なからず猜疑心を持っていた私は、「・・何か暗示的なものをかけられたりして終わる頃には、掛け軸とか印鑑とか買っちゃうのでは・・・・。
昔、人の心をあやっつたとかの、サブリミナルで有名だったコカコ-ラが置いてあるし・・」などと思っていた気持ちがあったのも、今でこそ笑い話だが、正直なところだ。そんな「警戒」という鎧を着て挑んだ体験講座も、衛藤先生の話が進み、時間がたつにつれ、気持ちが自然と上へ上へと引っ張られるかのようで、不思議とまとっていた鎧が少しずつ溶けて消えていくようで、終わる頃には鎧だけでなく、今まで長年連れ添ってきたあの鉛と化した自分の心さえ、軽くなっていたのを今でも鮮明に覚えている。そして、ここでなら、自分の今まで知らなかった、凝り固まった心のほぐし方を教えてもらえる。
たったといえばたったかもれない、約3時間の中で、それは確かなものとして実感できたのだ。
その日のうちに基礎コ-スの前、後両編を受講しよう、と決心した。今まで私は親の経営する会社でパソコンと向かいあうだけの毎日だったのもあり、行動や人間関係がごくごく限られていた。
しかし講座の中で、普段の生活だけでは出会えないであろう、色々な人たちと出会う事となる。そして講座では、優秀で立派な肩書きを持つ人達でも、皆それぞれ悩み苦しんで、同じようにもがいているんだということを知った。私は今、基礎コ-スを終えて、「どの講座に一番心打たれた、為になったか」という問いに対して、まずは「全部です」と答えたい。講座で、今まで自分がいかに自分自身の勝手な解釈、いわゆる「固定観念」に囚われて自分を苦しめてきたことを知った。
そして、それを知ることにより、そこからどんどん自分が変化していった。「私は姉より劣っている。そして私は愛されるに値しない人間」
という得も知れぬ「勝手な自分の解釈」から全てが始まったのだろう。しかしそれは、論理療法の講座で教わった「人の悩みは、固定観念によるものである」、そのものだった。論理療法では、自分で自分の物事への「受け取り方」を洗いざらい見直すきっかけを学び、ゲシュタルト療法では今まで自分の心が見ていた方向と違う方向があるんだとまざまざと知った。そして人生が180度変わる幸せ発見法や未来心理学では、私は私なりに、私だけの、ささいであろうと、生きている意味がある。
ということを、心から思えるようになったこと。
それが、その時ばかりでなく、これからの自分にとって大切な気づきになった。そして、ロジャ-ス博士の、自分の悩みの答えはあくまでも自分の中にあるという教え。
そしてそれは人生の宿題であり、自分を見つめなおす為にとてもとても大切なものだいうこと。自分を見失い、掃き出したい思いと一緒に「心」も押さえこんだ私に、「もういいかげん自分とよく向き合いなさい」とメッセ-ジを伝える為の結果の、うつという病。
体がその状態になるまでの過程と対処法を教えてくれた自分自身を知る心理学、森田療法、音楽療法、自律訓練法。私は自分には価値がなく、そんな私が生きているだけで「酸素の無駄」になるとさえ思いこみ、自分で自分を責め続けた。
そしてうつになった。
催眠の授業で、「病気は体からのラブレタ-」と教わったが、まさしく、うつという病気になったからこそ、その体からの手紙を読むこととなり、今現在の、「明日を恐れない私」がいる。「自分自身であれ。」この講座での先生の言葉は、私の体の毛細血管の隅々まで電撃のように行き渡り、今まで体の奥深く、誰も居ない、誰もこない暗闇で感情を失い、うつむきながら力なく横たわっていた「ほんとう自分」に届き、私は私を取り戻す術(すべ)を得たのだ。そして自分は変われる。
そして自分しか、自分を変えられない。
そして、先生がおっしゃったように、そう、何があっても、「私」には、「私」がいるじゃない。私は、「もう逃げるのはやめて自分と向き合いなさい」という体からのメッセ-ジを講座を通じて向き合うことができ、あの日、体がブレ-カ-を落とした原因であっただろう、引きずってきた重い重い手枷(てかせ)足枷(あしかせ)は他でもない、自分自身で取り付けたものでありと知り、それを受講するたびに、自分と向き合う事で取り外すことができた。そして、一瞬で過ぎていく時、人生の中で、「今」、自分ができることを。
些細なことで構わない。
私はそこでも、大それたことしか価値がない・とどこか思ってしまっていた価値観を捨てた。
そしてまたひとつ、ふたつ・・・と荷物を降ろし、心が軽くなっていった。私は先生方や一緒に学んだ受講生の方達から沢山の大切な事を教わった。
それをまた自分をいうフィ-ルドを通して、何かの形で誰かに伝えれたら、と思う。そして講座では、多くの人達の悩みのひとつであろう、自分の大切な人や価値観の違う人たちと「わかり合う」方法を知ることができた。できるできないではなく、知っていると知らないでは大きな差になる事だ。
私は「知った」事により、それだけで自分が頼もしく思えた。そして、講座を終えて思うこと。
私は今、とても幸せである。
いや本当は、生まれたときから、ずっと幸せだったんだと。