日本メンタルヘルス協会との出会い。それはとても偶然で運命的なものでした。
というのも、私は体験セミナーに参加したのではなく、外部の講演会でたまたま衛藤先生のお話を聞かせていただいたからです。
当時、私は仕事において大きな壁にぶつかっていた時期でした。
10年努めている歯科医院において、「これからの歯科医院経営はただ治療をすすめていくのではなく、患者様の声をきちんと聴き、患者様に治療の選択肢を与える方針ですすめていかなければならない」と院長と話し合い、おもいきって診療室にカウンセリングルームを設置しました。
そして、長年の歯科衛生士業務を離れ、私がカウンセラーとして抜擢されたのです。
自信がありました。人と関わることは嫌いではない。歯科医院での経験もある。だから、私が選ばれて当然。新しい新境地にワクワクしてなりませんでした。
しかし、現実はそう甘くはなかったのです。
今まで診療室ではスムーズにできていた会話もカウンセリングルームという密室で二人になると、思うように会話ができない。それに患者様の中には人生相談をされる方がいたり、逆に全く会話をしようとしてくれない方もいる。自分の作ったマニュアル通りにいかないはがゆさから、だんだんと自信を失っていきました。
そんなとき院長と参加した講演会で衛藤先生と出会いました。
最初に紹介をされたとき、「心理学の先生かぁ、ちょうどいい!今の私にはぴったりやん!」と何か悩みの解決策でも掴めるかもしれないと期待しました。
しかし、いい意味で期待ははずれました。カウンセラーとしての具体的な手法などを聞けると思っていたのですが、衛藤先生のお話はまさに「心」の話し。
私の頭からビジネスは消え、ただただ涙を流し、込み上げる感情に身をまかせるだけでした。
そして何かに突き動かされるように受講を決心しました。
それは、カウンセラーとしてではなく、本当の自分を探す旅のはじまりだったように思います。
私は「人から認めてもらいたい」という思いがとても強くありました。
しかし、本当の意味で自分自身が自分を認めていませんでした。
それに気づいたのは受講する中で、愛する母の死と向き合えたからです。
母は5年前に他界しました。
母は大好きだった保育士の仕事に復帰しイキイキとしていました。更に、私が出産をし、はじめての孫を誰よりもかわいがってくれていたのです。
そして忘れもしない2月3日節分の日。
毎日電話で1日の報告をしていた私はいつものように母に電話をし、「愛梨が今日、つかまり立ちしたんよ~。そうそう、今週末仕事だから愛梨を預かってくれない?」と話し、「わかった、わかった。今からお父さんと節分の太巻きを食べるから、後で電話するから待ってて。」と言われて、電話を切りました。そして10分後、電話をかけてきたのは父でした。「少し前に電話を切ったばかりなのにもう食べたんや~。」と思って電話をとると、「お母さんが食事中倒れた。息もしてない。心臓も動いてない。救急車呼んだからすぐに来い!!」
なんのことかさっぱり意味がわかりませんでした。それから先のことはあまり覚えていません。
ただ、鹿児島の大学にいる妹に電話をかけ、姉として動揺する妹を落ち着かせてから病院に向かいました。
病室に入ることすら許されず、どのような状態になっているかもわからない。
しばらく廊下で待たされた時間はどれほど長く感じたか…。
そして、父と私と私の主人が担当医に呼ばれました。見せられたのは母の頭部のレントゲン写真。
病院のオペ室で働いていた主人の顔が一瞬にして曇りました・・・。その瞬間、もう助からないんだということを実感しました。病名は「くも膜下出血」レベル4という助かる見込みもない重度の状態でした。
そして次の日、父と私は「もう、楽にしてやってください」と延命処置を断り、多くの親戚に見守られる中、母は安らかに息を引きとりました。
「人ってこんなにあっさりと死ぬんだ・・・」
「それならもっと話しをしたかった」
私には後悔ばかりが残りました。
学生の頃、私は両親に完全に背を向けていました。
もともと社交的だった母は友人も多く、毎日電話で人の悩み事ばかり聞いていた人でした。
誰からも愛され、たくさんの人に慕われていました。しかし、私にはそれが気に食わなかったんです。
人の心配するくらいなら私のことをもっと理解してほしい。もっと向き合ってほしい。そう思っていたんでしょう。日に日に帰りも遅くなり、家族よりも友達と一緒にいる方が楽になりました。
反抗をする私と母は顔を合わせれば喧嘩をしてぶつかっていました。
結婚をして出産をしてやっと母とまともにゆっくり話しをするようになり、親孝行しよう・・・と思っていた矢先に母は急死してしまったのです。
「何人ぐらいの方が参列される予定ですか?」葬儀場の方に訪ねられ「友人が多い人だったので
300人ぐらいだと思います。」と答えました。
そしてお葬式がはじまりました。最前列、家族全員、流れる涙を止めることができませんでした。
母はお花が大好きだったのでお焼香はやめて献花にしました。その献花の時間が始まった頃、葬儀場の方が来られてこう言いました。
「お花の数が足りません。参列者の方がたくさん来られて、今駐車場まで並ばれています。」
ふと後ろを見ると信じられない程の人の波がこの祭壇に列をなしていました。その数は700名を超え、お花は3回使い回すこととなってしまったのです。しかも、義理で来られているような方はほとんどおらず、みんな号泣しながら「あなたのお母さんには本当に助けてもらったんよ」、「3日前も私を心配して電話かけてきてくれたばかりなのに…」などと声をかけてくれます。母の親友の方のスピーチでは「彼女は菩薩のような人でした。ここまで人のために自分の身を削って生き抜いた彼女に敬意を払いたい」とさえ言って下さいました。
「母は普通の主婦だったのに・・・なぜ?」
私の知らない母の姿でした。
その数日後、私は結婚式の前日に母からもらった手紙を思い出し、思い切って読んでみることにしました。
「せいこ、人を愛するということがどういうことかわかる?それは相手を理解してあげるところから始まるのよ。お母さんはせいこを理解してあげようと必死だった。だけど、上手に伝えることができなくてごめんね。でもね、血のつながった親子はきっと心のどこかでちゃんと愛し合えていることを信じているでしょう?これからは血のつながりのない新しい家族を理解することに努めてほしい。あなたならそれができる。せいこ、お母さんの娘に生まれてきてくれてありがとう。」
なぜか数年後に自分が死ぬことを予言していたような内容で、私は数時間の間、涙が溢れて止まりませんでした。そしてあの参列者の波を思い出しました。たくさんの人を理解して愛した人の最後。
「なんて偉大な人なんだ。私もお母さんのように生きたい。」
それから私は変わりました。母の背中を追いかけて必死に・・・。
でも、偉大な母を追いかけることはとても辛いものでした。いつも「あの人の娘」という目で見られているような気がして・・・。
そんな時、日本メンタルヘルス協会の講座で学んだ森田療法(「あるがまま」の感情を受け入れること)。
「あるがままでいい、あなたはあなたにしかなれない」
という言葉に救われました。「母のようにならなければならない」という「ねばならない」にこだわっていた自分。受講を続けていく中で「お母さんを追いかけなくてもいいよ。あなたはあなたらしく生きなさい。」という母のメッセージを受け取ったように感じました。
本当の自分を探す旅はまだまだこれからも続いていくと思いますが、なぜだかそれがとても楽しみになりました。
今ではしっかりと離別感(相手と自分は違う存在であると認めること)を持ち、仕事で患者様と向き合える自分がいます。
患者様からいただく「ありがとう」は確実に一歩一歩、私を成長させてくれています。
まずは「今日1日をどう生きるか」を考えよう。
この1日1日の積み重ねが、愛する母の最後につながっていくことに気付かせていただいたから・・・。