究極の約束。
2019/04/21
中国と韓国と「どちらと仲良くするべきか?」二者択一の問いにコメンテーターが答える。若い女性のタレントだけが「ご近所だから、どちらとも仲良くしたいですね」と答えたが、番組の趣旨と合わなかったのか、年配のコメンテーター達から、軽くあしらわれ一笑に付された。
コメンテーターの一人は「韓国は、サムスンしかないし、東京都のGDPより韓国のGDPは低いし、どうでもいい国だから無視!」「ただ中国って国は麻薬なので、つき合った国は破綻して、つきあわない国は栄える」と言い放った。
ほとんど多くのコメンテーターは、どちらの国とも、イヤな国だから、付き合わなくてもよいとの意見が大半をしめていました。
これだけ多くの出演しているコメンテーターが語るのですから、今の多くの日本人は、韓国や中国に対して「このような感想を持っているのかなぁ」と不安に感じた。なぜなら、日本でもこうなのですから、韓国や中国でも同じような番組をやっているのかもしれないと…。
犯罪心理の勉強をしている時に、ある若い暴力常習者と接見した心理学者の書いた手記を読んだことがあります。
その暴力常習者の青年は1年で3度も暴力沙汰で警察に連行されている。些細なことがキッカケで、相手の肋骨や顔の骨を折っている。
青年に言わせると、ケンカになる直前までは興奮しているのだけれど、いざ、相手を殴り始めると、気持ちがよくなって、相手に致命的なパンチを浴びせている自分に対して、英雄のような気分になると言う。
まるで、自分は正義の戦士で、相手は悪の親玉で、絶対に生かしておいてはいけない悪魔が、目の前にいると、そして、ボクサーのように冷静に、殴るのだと言う。自分は、すべての人を守るために戦っていて、自分は偉大とさえ感じるという。そして、相手が意識を失って血を流して倒れていると…。
普通の人は、誰かに殴りかかる時に、これほど徹底的に、自分が善玉になり、相手を悪玉視することはありません。痛みにゆがんだ相手の顔を見ると、少しの後悔と怖さが生じるものだからです。
でも、彼は、相手が肩に触れただけでも、相手は無神経なヤツで、横暴な悪の親玉のように思いこんでしまう。そして、こんな人物は生かしておいてはいけない、という強い感情に支配されるのです。
この手記で心理学者は「人間の恐ろしい側面は、この二分割してしまう心理なのです」と書いていました。
サリン事件を起こしたオウム真理教も、戦時中の国家も、そこにいた人びとは、自分たちの信じる正義で行動し、犯罪集団に変ぼうしたり、戦争になだれ込んだりしたのです。
犯罪心理を勉強してからは、自分にも、誰にも、その怖ろしさはあると知って「みなが、そう言っているから」という言葉に対して、ちょっと立ち止まって考えるようになりました。
まずは、自分で考えてみようと…
前回の禅でも話ましたが、自分の正しさや、気づきでさえも…
ある部分からながめての、自分の正しさや気づきは、ある人から見ると愚かであったり、勘違いであったりします。ですから、決めつけで人を見ないように努力をするようになりました。
ある瞬間から人は、自分が正義だと信じると、相手は完全な悪玉だと思い込んでしまう。誰かへの攻撃や、イジメもすべて正義のためだ!と、正義のヒーローになってしまう。だから、攻撃される相手は、制裁を受けて当然だという感情に支配されて限界を越えて暴力をふるってしまいます。
ヒットラーもまた、ユダヤ人を本気で悪魔だと思い込み「自分は神の使命を帯びている」と、思い込んでいたと、僕の好きな現代史家は語っています。
このように100パーセントの善玉の味方と、100パーセントの悪玉の敵を対立させることによって、戦意も高まり、攻撃性の導火線に火がついて、戦争はスタートするのです。
ピュリッツァー賞を受賞している、僕が尊敬している現代史家は語ります。
「人間には100パーセントの悪玉も、100パーセントの善玉もいない。
にも関わらず、人々はその人物が一つ犯罪を犯したり、悪事を行ったり、過ちを犯したりすると、その人物のすべてが悪玉であったかのようなイメージを抱く。
しかし、これは科学的な事実の認識に反することです。たとえば、90パーセントその人物に犯罪的な事実があっても、もしかしたら、10パーセントは良いことをしているかもしれない。
100パーセント悪玉視することによって、10パーセントの善行を否認してしまえば、現実認識の誤りを引き起こすことになる。自分はこのような歴史認識の誤りをもって使命としたい」と…
彼が指摘した部分は、心理学では「過度の一般化(over-generalization)」と言われる認知の歪みです。
たとえば、僕の両親が九州出身で、大阪に住んでいた両親たちが、離婚してからは、僕も九州の祖母の家で育ちました。
だから「僕の田舎は九州です!」と言うと、とっさに「あ、それでヒゲ!男くさいよね!」とか「なら、お酒飲めるでしょう!」と言われます(笑)
九州の男性の、すべてがヒゲを生やしてはいないし、僕は、それほどお酒を飲みませんσ(^_^;)
今、大阪に居をかまえ、全国に移動して講演していると「僕は関西から来ました」と言うと、ある人が「それで笑いが多くて、おもしろいんだ!」と、言われることもあります。
僕が、面白いか、どうかは別にしても、笑いもなく、無口な関西人も、たくさん大阪に住んでいますよね。
たまたま知っている人の集団がそうだと「その集団はこういう人の集まりだ!」これが過度の一般化です。
上の事例では、別に問題にはなりません。でも、気をつけないといけない過度の一般化があります。
一度か、二度の失敗で「どうせ私は…」とネガティブに自信を失ったり、過去の相手の言動から推測して「どうせ、あの人は分かってくれないから」と、今の現在や、未来まで決めつけてしまって「どうせ思考」に落ち込んでしまったら、以前のブログで書いた「不幸予報士」になってしまいます。
話はそれましたが、自分を疑わない人が、自分は正しいと思い込んで、相手を変えようとしたり、攻撃すると、対立は、不仲になり、やがてはケンカになるでしょう。
国であれば、国際的に孤立するか、最悪は戦争に突入します。
僕が今日見た番組をネットで調べていたら、こんな「意見」に出会いました。
この意見を書いた人の背景を僕は知らないのですが、その番組の片寄った意見を投稿したことで「在日!」とバッシングを受けたようです。
以下はその文章です…
以前の内容で「在日死ね!」というコメントがあったので追記します。
おそらく差別番組だと書いたからだと思いますが、最近は韓国批判をしない人間は在日認定される風潮が強くなってきました。
みなさん、よく考えてください。
国際問題というのは、国の政治家同士がやっている喧嘩です。
それに何故振り回されなければならないのですか?
政治家に同調して、我々も韓国の人を全員敵視しなければいけないのですか?
アナタは直接、韓国人や中国人に攻撃されたのですか?
ニュースやネットで「そういう話」を聞いただけなのではないですか?
特定の人物をさして「◯◯が許せない!」ならわかりますが、「韓国人」という名前の人がいるのですか?
5000万人いる韓国人を一緒くたにして区別するなんて、私にしてみれば血液型性格判断と同じようなものです。馬鹿げてる。
ナショナリズムは国内世論の形成に必要なのかもしれないけど、私は政治家同士がやっている人種間争いに振り回されたくはありません。
「韓国人・中国人ゆるすまじ!」と怒っている人は、いま一度、自分の本当の意思がそこにあるのかを考えてください。
つまらない政治的意思に利用されているだけなのではないですか?
ネットのまとめサイトなどでは韓国ネタ・中国ネタを見出しにすればアクセスが膨大に稼げるから、極端に隔たったネタをばらまいています。
当然、韓国や中国でも同じように日本人ネタが人気です。
そしてお互いが目に見えない、実在しない「日本人さん」や「韓国人さん」と戦っているのです。
馬鹿らしいとは思いませんか? もっと、自分で考えましょうよ。」
僕はこの追記を書いた、彼女の見方は、間違っていないと思っています。
先に書いた、現代史家のジョン・トーランドは続けて語ります。
「ヒットラーもまた一人の人間であり、身近な人々にとっては、人望のある、人間味のある人物という側面を持っていました。
もし、そうでなく、ただの狂気の人であれば、あれだけの人望を得て指導者になることはできなかったはずだ。
しかし、身近な人々にとって人間味のある人物が、ひとたび自己肥大感と誇大妄想にとりつかれ、キリストの処刑を下したユダヤ人は、人類の敵であるという錯覚を信じ込むと、あのようなホロコースト(大量虐殺)も平気で行なってしまう。
そこに人間的な恐ろしさがある。
同じように、トルーマン大統領は家庭的には非常にやさしい父親であった。
しかし、そのトルーマンがひとたび大統領としての使命感と、戦争を早期に終結という考えに支配されると、容赦なく原爆投下の命令を下してしまう。
狂気の人物が狂気を行うことは当然である。むしろ正常な、しかも身近な人間関係の中で、人望のあるような人物が、ひとたび特定の理念や、特定の国家意識にかり立てられると、あのような恐ろしいことができるところに、人間の真なる恐ろしさがある。
これからの世界平和にとって、この見方がとても大切だと信じています」
とも、述べています。
多くのテロリストも「攻撃は、神の意思だ!」と、信じ込んでいます。
犯罪者が出てしまった家の塀に「悪魔の住む家」「バカヤロー!」「早くここから出てゆけ!」「この街の恥!」と落書きをするのも、善良と言われている一般市民です。
そう、そこには親が犯罪を犯してしまい、恐怖におびえる子どもたちが、冷たい視線に、身を縮こまらせて、今も落書きされた、塀の中に住んでいることも考えないで…
子供たちは平等だと、一方で語りながら、マスコミの放射能汚染におびえて、福島の子ども達が、転校してくることに不安を示した親たち。すべては、自分の子供たちの健康への正しさから始まります。
ですから、アメリカのカウンセラーの先生は言いました。
「鉄格子の中で叫んでいる統合失調症の人は、世界を狂気に引っ張ってはいかない。僕たちのような『先生!』と呼ばれる人々が、一番恐ろしいのだよ。だから、自分が間違わないと思い込んだら、自分自身が危険な水域内に入ったと言うことだからね。その時は『先生』と言う立場から撤退しなさい。それが君たちとの究極の約束だよ」と…僕は今も、この究極の約束を大切にしています。
最近のスポーツでの、アウェイやホームと言い方が、僕は好きではなくて、自国でも、対戦国でも、一生懸命に戦っているのだから、どちらもフェアーな勝負なら心から応援したい。
もちろん、愛国心はあるから日本が勝てば僕は嬉しいのも事実。でも、相手の国にもエールを送りたい。
それが、僕は武士道だと信じています。
対戦相手に勝っても、負けても、一礼する。それを日本人は失ってはいけないような気がします。
だから、あんな国はいらないとか、あの国は病気だとか、過度の一般化の危険な水域に、すでに、僕たちも、マスコミも、政治家も来ているようで、なんとも言えない不安を感じています。