祈りと言う静けさ…

      2019/04/21

 心理カウンセラーという役割をしていると、

 「私の知り合いに、こんな人がいるのですが…」

 「間違った生き方をしているのが心配で…」

 「うつ病の友人を見ていると、今のままの考え方ではダメだと思うので…」

 誰かに「助けて!」と言われた時のカウンセラーとして援助の方法はたくさんあります。

 ただ「救って欲しい」との、本人からの依頼がない時に、正義の虫や、おせっかい虫が騒ぎ出すと、いらぬお節介になることがあります。

 僕も心理学やコミュニケーション学を学び始めた頃、すべての問題点を救ってあげたいとカウンセラーとして躍起になっていました。

 ましてや心理学で心の歪みや、誰もがトラブル思い込みのパターンが解ってくると、より一層その正義感で、お節介の傾向が当時は強烈でした。

 アメリカで学んだプロフェッショナル精神とは「出来る事」と「できない事」が、分かっていることでした。

 何でもできると言うのは、プロではないのです。

 「いつでも話を聞くからね」音譜と言ってしまうと、不安神経症の人は夜討ち朝駆けで、相談の電話をして来ます。

 それに、堪り兼ねて「もう、いい加減にして!パンチ!」となれば「相手は、いつでも電話をして良いと言ったではないか⁇」はてなマークになります。

 この場合「常識を考えてよむかっ」は、通じません。なぜなら、悩んでいる人は、人一倍、誰かに頼りたいという気持ちが強いのですから。

 それを見越して言葉を選ばなかった人がプロではなかったのです。

 ですから「なんでも私に任せてよ」音譜と言ってしまう人は、プロではありません。

 また、どんな悩みでも解決できるカウンセラーはいません。それを言い切る人は、人の人生を簡単に考えているのです。

 私は「なにが得意」で「なにが不得意」であるかを自分自身で熟知している人、それがプロフェッショナルなのです。

 最近、僕は「縁なき衆生は度し難し」という言葉が身に染みます。

 僕は宗教家ではないので、縁(関係ある)とか、衆生(人々)、度す(助ける)くらいの意味しかわかりませんが、カウンセリングルームで、悩みが解決する相談者は、問題が解決できるタイミングで、カウンセリングに来ているのです。

 そこには、その人なりの絶妙なタイミングが働いているのです。

 「時間」や「環境」「出会い」「もう悩むのが、心底イヤになったから」などの、その人なりの最高のタイミングが、カウンセリングの成功する陰には隠れています。

 それらを広い意味で「縁」と言うのかもしれません。

 悩みの解決には「時間」と言うタイミングを、仲間につけないといけないし、カウンセラーと相談者の「相性」や「波長」といった、目に見えないものが関係しているように思えます。

 心理カウンセラーC・ロジャースは、「悩ませると時には、トコトン悩ませなさい。そこから学べることが多いと…また、悩みは人生に気づくためのエッセンスだと」教えてくれました。

 トラブルの元は、悩んでいる人よりも、周りの外野が、それに耐えれなくなっているのかもしれません。

 「馬を水辺に導く事は出来るが、馬に水を飲ませる事は出来ない」ともいう。その渇きを待たないといけない時もある。
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 このブログの上のバーにある「ひとりごとアーカイブ」の2010年12月23日にも書いていたようですが…

 病気になったり、不幸に見舞われた人に「大丈夫?」「どうなの?なんでも私に相談してよね?」などは、その人の自己満足に終わることがあります。

 僕の長男が小児がんになって入院した時に、周囲に「大丈夫ですか?その後どうですか?お坊ちゃんの具合は?」と毎回多くの人に切り出されると、その度に説明するのがツラかったのを覚えています。

 もちろん、心配してくれているのはありがたかったのです。

 でも、その病に冒された子どもの親の僕にも分からない、これから向かうであろう子どもの病状を語ることに、辛さを感じるようになっていました。

 やがて「お陰様で、ありがとうございます。僕たちは子供は良くなると信じています」と、だけ返すようになっていました。

 一番ありがたかった人の声かけは「何か出来るコトがあれば、声をかけてくださいね…私で出来ることは何でもしますから」とだけ伝えて、遠くで見守ってくれている人でした。

 小学生だった頃、義理の母が亡くなりました。近所の人々が「ノブくん、大丈夫かい?ツライね」と言った後、その近所の人々が大笑いして、誰かのうわさ話に、花を咲かせていました。もちろん、分かっています。そのご近所に悪気は無いことも…

 僕の知り合いが、ガンでいよいよと知らされて、彼のお見舞いに行きました。

 年老いたお父さんが「もう、痩せてしまって子供は、誰にも会いたくないと言っていますから…」と言ったと、伝え聞いて、僕は「治ることを信じています」と手紙だけを託して帰った。

 一緒に行ったメンバーは「それでも、来たのだから」と一言かけてくると、病室に入って行きました。

 せっかくのお見舞い者に「帰ってください」とは言えない家族と、子供に先立たれる親の気持ちを考えると、僕にはそれができなかった…愛の側になると、人は正しいという思いに支配される。

 お葬式で、親が死んだ事を知らずに無邪気にはしゃぎ回る子供を、可哀想にと抱き上げ、涙ながらに頬を押し付ける瞬間に「自分は情のある人間だ」とナルシステックにも自分に酔う瞬間が無いのか?を見つめる目を持ちたい。

 子供は突然抱かれて、知らない人に涙いっぱいの頬を押し付けられる。子供は、その瞬間は、親の死が分からない中で生きているのに…突然、現実という他人の優しさの演出に担ぎ出される。

 僕はこの劇場型社会の中で「沈黙」という意味を噛みしめたい。

 静かな祈りとは、激しい親切よりも、「縁」を感じることがあるからです。


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき









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