現地に行かない援助

      2019/09/11

僕の出身は大分です。

  生まれは大阪ですが、育った場所は大分です。 今回の震災があった熊本には友人知人がたくさん住んでいます。 震災の直後は、名古屋にいましたが「衛藤先生は大分に飛んで、名古屋に来られないと思っていました!」と、週末の東京校でも似たことを言われました。 そうですね… ただ僕の父親は、大分に帰ったほうが叱ります。 「何しに帰ってきたのか?お前の仕事は、すぐに帰れる程度の仕事か!」と、そう彼は九州の男です。 慌てて被災地に馳せ参じるのも良いですが、日本の社会を皆で下支えしなければ、日本の国自体が被災地に支援する援助金も払えなくなります。

  僕の育った大分の近くのお寺の住職は「人生は修業なのだよ。のぶ君、君は両親が離婚して大分に預けられツラいだろうが、子どものうちにツラいことを経験しておくと、その後は良いこともある。だから、辛抱しなさいね」とお話ししてくれました。

  仏教では、この世は修業場だそうです。だから、修業場なのに、良いことが続き過ぎると、後でそれが病気とか、死ぬようなことが、まとまって来ないように、せめて余裕のある中から、お布施をするそうです。

  よく駅前で、傘を深ぶかとかぶった修行僧が、たく鉢のハチを持って立っています。それにお金を寄付する人(お布施する人)が頭を下げて、修行僧は鈴をチリん🎵と鳴らす。なんだか逆ではないかと思ってしまうのですが、お金を与える人が偉い、もらう人の立場が低いという常識は仏教にはないのです。

  人生という修行中に良いことが続くと、また、生まれ変わり、また修行を積まないといけなくなるので、商売がうまく行ったり、恋愛がうまく行ったりする人は修行中に楽しんでいるので「喝!」なのです。せめてお菓子を食べれば失う程度のお金なら、どうぞいただいて下さい。一回の食事をして消えてなくなるお金なら、どうぞ受け取って下さい。それが、お布施だそうです。人の生活によって違いますが、それらを一回くらい我慢して、そのお金でお布施させていただきます。 そんな精神が、お布施の本当の意味なのです。

  キリスト教にも同じような考えがあります。この世の人は生まれつき罪人なのです。生きるためには何かの犠牲が存在しています。人の食は、その食材の命をいただいているのです。誰かが合格すれば、誰かが落ちます。人は生まれつき原罪の中で生きています。まさに牢獄です。なので「お金持ちが天の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言われるのです。

  そう、だから、九州に起きた地震が、みなさんの地域で起こったかもしれないのです。ですから、熊本の人がそれを引き受けてくれたので、その分、ボランティア精神で、それぞれのフィールドで下支えして、いつも以上に働きましょう。そして、その1日分を寄付するのもいいでしょう。それのほうが、慌てて一時的なボランティア精神だけで被災地に行って混乱を引き起こすよりも被災地のためになると思います。

  だから、目の前のお仕事に、九州へのお布施の気持ちで、祈りを込めて頑張りましょう!

 
<関連記事> 2011.3.13「黙考の中で・・・」 2011.3.22「喪をあける戦い」 2012.3.02「大丈夫?は、大丈夫の質問にならない」
 

 - ブログ

>