泣けない、あなたへ
2019/04/21
ただ、唯一、自分が飼っていた愛犬が死んだ時には、泣けたのだと…
何かの出来事が、人を感動させるのではない。その出来事に自分がどう関わったかに、人は感動するのだと僕は思う。
ある幅跳びの選手が、日本初の新記録を樹立した瞬間に、スポーツ記者に「今どんな気持ちですか?」と問われ「今、死んでもいいです!」と泣いた。
そんな彼も、以前は自殺を考えるほど落ち込んだ時があった。
数センチの記録が縮まらないことに苦しみ悩んだ末のことだ。
そんな苦しみの日々の中で「こんな数センチ、バッタだって飛べるんだ…そんな数センチくらいのことで、自分は何をクヨクヨと悩んでんだ。オリンピックや、記録のために飛んでいるのではない! そう、楽しくて幅跳びを始めたはずだ。自分は世界を背負っている気持ちになっているが、数センチ縮めても世界は変わりはしない。命が終わるわけではない。自分が楽しもう、そう、それでいい」と、心が楽になったと語る。
「たかだか、バッタの数センチ!」バッタは飛ぶことに苦しんでなんかいない。飛ぶこと、それがバッタの喜びだ!そう思うと、急に心が解放されるように彼には感じた。
「そうだ、バッタのように楽しもう!」そして、彼は練習を再開した。
ところが、彼は次の公式試合で、当時の日本記録を書き替える結果になる。戦前以来の快挙、日本初の8メートル・ジャンパーになる。それは、当時では世界記録でもあった。
「バッタだって飛べるさ」と言って笑った彼が、バッタだって飛べる距離を縮めた瞬間に、グランドで記者に囲まれて、感動のために彼は「今、死んでもいい」と大泣きした。
現代の私たちは、一生懸命に練習し、苦しんだ末に言うべき彼の言葉を、何も努力もしないで言ってしまう。そう「バッタだって飛べる。バカみたい~」と。
何かに一生懸命、夢中になっている人に「バカじゃない!そんなこと」と冷めて言ってしまう。
練習し努力して、もう汗なのか涙なのか、分からなくなった後に、苦しみの中で言うべき言葉を、何も努力しない人々が、日常で言ってしまう「バッタだって飛べるさ」「あんなことにムキになってバカじゃない」「あんなジャンプに、何があるの?考えられない」「四年も練習してるなんて、ありえない」と…
そう冷めた言動が、この世界を平凡で、退屈な世界に変えてしまう。これが生きる気力を失っている人に多い傾向です。
人はバカみたいに、ムキになったことで、見えてくる世界があります。
追いつかないボールにぶざまに飛びついて初めて、見えてくる世界があるのです。グローブの先に飛んで行くボールを追いながら、自分の練習不足と、ライバルの放ったボールのスピードに、相手の努力の日々を知ることになる。そして、ベンチ裏の仲間は「ヤツは、試合を捨てていない!俺たちもあきらめるな ‼」と。
でも、飛びつく前から「取れねぇし」と言ってしまえば、世界は、ただ面白くもない退屈な、平面な現実が広がるだけになるのです。
だから、すべてを「くだらない」と言わないで、なんでもバカにしないで飛び込むことで、世界の深さを立体的に、そしてリアルに感じられるのです。それが、感動への近道です。
話は変わりますが、僕は今日も飛行機に乗りました。今日は博多泊です。
博多、大阪、名古屋、東京の教室や顧問先の企業を一週間で回らないといけないと、必ず、週の内に一回、二回は飛行機に搭乗することになります。
ライト兄弟が初めて空に舞い上がった時間は59秒、260メートルです。
僕は、ライト兄弟の初飛行の距離の数万倍を、いつも飛んでいることになります。
でも、ライト兄弟が、涙を流して泣いたほどの感動が、機上の僕や乗客にはありません。そこにライト兄弟と乗客との間に「活動に対する思い入れ」の違いがあるのです。
42.195キロのフルマラソンの距離を、車で走っても、そこに感動がないのと同じで、大切なことは、どれだけ、その出来事に思いを入れたかなのだと思います。
涙を流さない、感動できない彼女が、ペットの犬の死で泣けたのは、それだけ、その犬と過ごした時間への思い入れの深さがあったからです。
何も感動しないと言った彼女は、コンビニで、レジを打っていた外国人にも「イラだってしまう」と語った。「言葉も片言しか、分からないからイライラする。何でこんな人を雇ったの」と…
僕は海外でアルバイトしたことがあるから、同じシチュエーションを見かけても、そんなにはイライラしません。それは、外国人が、異国で働くことの大変さを知っているから。
ですから、海外の人がたとえコンビニのレジで要領が悪くても、僕は心の中で「ガンバレ~」ってエールを送っています。当然、言葉でも「ありがとう‼」と伝える。
よく子どもが生まれると、子どもが泣いているシーンを見ても、イライラしなくなったと言います。自分が親になって、泣いた子どもの両親の大変さを共有できるからです。
学生が街頭でチラシを配るバイトをしたら、街でテッシュを笑顔で受け取るようになったと笑って話していました。共有体験ができたからです。
人が泣くほどに感動できないのは、それに似た共有体験がないからなのだと思います。たとえ、同じ経験がなくても、人は人として イメージで共有できるのです。
僕はいい話を聞くと、やっぱり目頭が熱くなる。まったく同じ体験がなくても、その人の心情、それを取りまく人びとの感動が、人生経験の中で共感できるからです。
現代の学校の知的教育は、世界のすべてを頭(知識)で理解させようとする。
「それ意味があるんですか?」「儲かるんですか?」「ボールを今から、追いかけても間に合わないですよ」「ぶざまですよ」「そんなコトで泣けますか?」と、冷ややかな目で平面的に、上っ面で、とらえてしまう。
そんな人は、いろいろな経験に、出来事に参加して飛び込んで見ることだと思う。
取れない球をあきらめないで追っかけてみる。断られるはずの商談に、もう一歩喰いついてみる。勇気を出して、気になる人に話しかけてみる。この世界の深さや奥行きを味わってみることです。考えていたことと、体験することは違うから。
なぜなら、いつかはこの世界を、誰もが卒業して行くのです。人から「バカみたい」って言われても、バカになれるほど夢中になる何かにも出会わないで、冷めたまま人生が終わる人よりはましだから…
経験をすることで、この世界は、3Dいや4Dにまで高められる。
ニーチェは言った「世界は深い!」と。
そこで冷め切って「そうかなぁ?」って言っちゃう、あなた。
人生は祭りなんだよ。そう、いつかは終わる祭り。踊るのもアホなら、冷めて生きるのもアホです。
同じアホなら、一度の人生、踊る側にいようよ。
僕は、いつも人生は感動する側にいたいです。冷めた批評家にはなりたくない。
感動がないと言うなら、飛び込めばいい、リアルな世界に!
メンタルに参加してごらんよ!
「でも」とか「だって」とか言ってアレコレと理屈をこねていないで。
それが、いつものクセでしょ。
いつまで、そこにいるの?
なぜなら、人生は「あっ!」という間に終わるのだから。