汝、裁くなかれ!
2019/04/21
ある女性からの相談で、妻子ある男性と恋をしていた。ところが、相手のほうからの愛情が最近は冷めてきた。
どうも、彼には新しい女性がいるようだと言う。
「どうして、それが分かったのですか?」と尋ねると、
「私って勘がいいのです。相手がいるかなと思うところに行くと、たいてい女と一緒にいるんですよ」と彼女は切れることなくしゃべり続けた。
「隠れてコソコソしているような恋愛は許せないと思うのですよね。相手には奥さんがいるのだし。そういう二人には罰が当たるというか••••」こんなことが世の中あっていいのかと言わんばかりにいら立ち語る。
「でも、あなたも彼の奥さんをダマしていたことがあったのだから、それを、あなたは責められないのでは」と言うと、「それがなにか」と、不服そうな顔で、「私はもう立ち直ったのだから言えるのよ。そんなお付き合いは間違っていると‼」
彼女は、自分の過去のことは棚にあげ、自分に愛を向けなくなった彼への怒りを、正義の刃で感情を転移させていることに気づいてはいない。
そして、彼に会うと「二人の旅行は、さぞかしいい天気でよかったでしょうね」と嫌味なことを言って、彼からより嫌われる態度をとる。
「そんなにイヤなら、相手のことを忘れて未来を考えたらいいのでは」と僕が言うと、
「彼の奥さんが可哀想」と自分は正義の立場で「彼と彼女を正すべきだ!」と自分の正義にまたも酔い始める。
「憎しみ」も「愛情」も、心理的には相手への執着から生み出される。
荘子の言葉に「君子の交わり淡きこと水の如し、小人の交わり甘きこと醴(れい)の如し」がある。
ステキな人間関係は、川の水のようにサラッとして、カタチを変えても変わらない澄んだ水のごとく深く、永遠に続くものである。
でも、本物でない人間関係は、最初は甘い酒のように酔いしれるが、酔いが冷めると悪口、陰口、批判に変わるものです。
自分がその立場にいる時には、自分の行為に目をつぶり、自分がその立場でなくなると正義の側の立場で相手を裁く。
喫煙家がタバコを止めて禁煙家になった瞬間から、健康論で喫煙家を裁く人になる。自分がタバコを辞められなかった時のことを忘れたかのように••••
僕が一番好きになれないのは、このてのタイプなのだ。
だから、僕自身も講座で立派なことを言いすぎると「僕も、なかなかできないですけど」とか、正論をまくし立て過ぎると、「言うは易し、行うは難しですけどね」と言ってしまう。
また、会場が反省モードでシーンとなると「ゴメンなさい」と誰にともなく謝ってしまう。
この謝罪は、「自分がなんぼのもんや」「自分は完璧か⁈」ともう一人の僕が自分を戒めるからに他ならない。
だから、テレビの評論家が、一度も自分は罪を犯したことがないという、したり顔で人を責め、裁いているのを見ると「偉そうに」と僕は責められている人を弁護したくなる。
一度も罪を犯したことがないと言い切る人が、僕は一番罪深いと思う。
まともな人は、自分をかえりみれば人を裁かないものである。そう、静かに自分を反省する。
自分が何か行動した時には、いろんな立場がからむことがあるし、人にはいろんな理由が背景に隠れていることも知っている。
ステキな人は、すべてを単純に善か悪で割り切り、二元論で切り捨てる怖さを心からよく知っている。
正義の女神のテミスも、右に天秤と左に剣を持ち、何より周囲の情報に惑わされないように目隠しをしている。
新約聖書に「人を裁くなかれ。自らが裁かれぬためである。汝が裁くその裁きをもって自らも裁かれ、汝が量るその量りをもって自らも量られるであろう」と言う言葉がある。
正義を声高に叫ぶ時に、自分を客観視できる人びとは、僕は戦争を起こさないと思っています。
「裁くのをやめる。それだけで、人は幸せになれる」
ジェラルド・G・ジャンポルスキー