死にたいと言う、あなたに…

      2019/04/21

 「死にたい」と言う、貴方に…

 何が貴方にあったのか、僕には分からないけど。

 生きるのは辛いことだと、僕にも分かっているから。

 そう、誰もが先、未来のことは分からないし、誰からも気にされない時には、人は淋しさに押しつぶされそうになる。

 また、大切な人を失ったりすると、その人がいない人生なんて、ただ、平坦な地獄のような、空虚な日々が永遠に続いてゆくのだと思えてしまう。

 「死んで花実が咲くものか」と人は言います。でも、絶対、生きていれば花実(良いこと)が実るとも、誰もが保証はできない。

 でも、僕は「石に噛りついても、生きていかないといけない」と思うのです。

 死ぬと楽になると、思っている人がいますが、僕はこの世界をしっかり生きなかった人は、死んでも楽にならないと思っています。

 仏教では、生きていることは、修行だと言われます。四苦八苦の苦しみの中で、生き抜くと、もう、生まれ変わることのない涅槃(天国)に行くそうです。

 キリスト教でも、人は生きていることが原罪で、人は罪の中で生きているのだそうです。そして、神から試練を与えられても、誰かのために祈りながら、生きた人だけがパラダイス(天国)に行けるそうです。だから「苦労していない、お金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言われています。

 僕がアリゾナで暮らした、インディアンの考えの中にも、生きることは、心と身体を鍛えるためであり、いつか時が来れば、グレート・スピリットに導かれ、僕たちは永遠の世界に、迎えられるのだそうです。だから、人は、泣いて生まれ、最後の時が来たら、亡くなる本人が笑い、周囲がわんわん泣いて、皆から惜しまれて死ぬ。それが、ネイティブ・アメリカンの死生観です。

 それを、信じる、信じないかは、誰もが自由なのです。でも、多くの神話や経典、聖書の中に共通することがあるなら、僕は生きることは、やはり修行ではないかと思っています。修行だと思えば、苦しく、辛くても、あたり前になります。

 人生は、楽しいものだと考えて生きると、悲しいこと、辛いことがあると、「自分だけが」となるのかもしれません。

 また、人生が、悲しみが前提なら、楽しいこと、ステキなことがあると、自分の力だと有頂天にならず、すべてに感謝できる生き方ができます。

 僕自身は怖がりだから、たとえ立派には生きれないにしても、与えられた時間(刑期)の修行だけは、ただ、ただ生きないといけないと思っています。

 それが、最低限度の修行だと思うのです。

 人も、動物でも、命の持つ生命は、最後の最後まで「石に噛りついてでも、生きないといけない」のではないでしょうか。それが生命のルールだと。

 運動をしていると、苦しさの先に、今まで出来なかった事が、苦しくなく出来ることがあります。勉強から登山まで、苦しみの先に「この景色を見たかったんだよなぁ」と思える時があります。

 今、それが見えないと言うなら、それを見るためにも、貴方は生きて、それを確認する必要がある。

 貴方の「死にたい」と思うほどの苦しみの先に、何が見えるのか、それは誰にも、分からない。誰からも教えてもらえない。もちろん、僕にも分からない。

 それを見つけるために、誰もが生きているのだから。

 だから「ただ、生きる」と「答えを探すために生きる」とでは、生きる姿勢が違う。現代は「生きる」ことは誰でも出来る裕福な時代です。でも、答えを探して生きることは簡単ではない。

 仕事でも、挫折でも、恋でも、人生でも、だから、先を人は歩き続けるのだと思います。

 もし、そこまで行っても答えがなかったら「なんだ、答えがなかった」(笑)と答えを出すことも、立派な答えだと思う。

 あの世に、それを手土産に、持って行ってもカッコいいじゃないですか。だって、それは、貴方がゲームを降りなかったことの証明だから。

 自分で自ら命を絶ち、途中で出した答えは、決っして答えではない。

 カウンセラーから言えることは、

 周囲が幸せそうに思うと、自分だけが苦しく、不幸だと思う時があります。でも、カウンセリングをしていると、誰もが、それぞれの課題を抱えて、石に噛りついても、人は生きているように思えます。

 どんなに幸せそうな人の中にも、それぞれに探している宿題の答えがあるようです。

 最後に、貴方の中にある細胞のすべては、食事したものを吸収し、毒素を外に吐き出そうと日夜、この瞬間も戦っています。

 そう、貴方の心の悲しみや嘆きなど「それどころじゃないあせる」と言わんばかりに、身体は、今日を生きること、さらに明日も、貴方が生きてもらえるようにと、戦っています。

 日夜、細胞は生まれ、そして死に、命のバトンを手渡している。

 その身体の細胞も道づれに滅ぼすことは、60兆の細胞の願いを裏切ることになります。もし、貴方が孤独で淋しいのなら、その細胞だけでも、貴方の味方だから、身体に聞いてみればいい。心臓の鼓動も、血管の脈も、今日も「生きよう!」と訴えかけている。

 だから、その細胞の主人であるあなたが、外の世界が心地よくないからと、今日という日をあきらめたら、彼らの日々の活動は「なんのための努力なの?」となります。

 貴方が終わらせなくても、時が満ちれば、細胞のすべてが休止に入ります。その時までは、貴方は人生の答えを出すべきではないのです。

 だから、君死ぬことなかれ…




日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき






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