桜宮高校だけで、事件は起こっていない。

      2019/04/21

動物には、捕食、生殖、群居の本能があります。
人間にも、 食欲や性欲 、集団欲があります。

ただ誰もが食欲や性欲は、ピンと思い当たりますが、集団欲はピンときません。

なぜなら「私、独りでいるのが好きなの」という人もたくさんいるからです。
でも、それらの人々も、人間関係に疲れてしまう出来事があって、今は刺激遮断状態にいるのです。そう一時的に逃避しているのです。

お腹が空くと、何かを食べたくなるように、淋しくなると、人は誰かを求めます。

引きこもりの人の話を聞いていると、今は人との関係を遠ざけていても、DVDやゲームの中に人間関係をシッカリと求めています。

だから、人は人によって傷つきますが、でも、人によって生かされてもいるのです。ですから、僕たちは「ふれあいたい欲求」(集団欲)を持っています。

その集団欲が満たされる最小単位は家族です。

だから、幼少期に親から愛されないと、人は不安になります。その結果、子供は親の不機嫌な態度には、とても敏感になり、不安な子供ほど親の顔色をいつも、うかがいます。

ですから、親が学校の成績だけに「人生の価値があるのだ」と、偏った価値観で子供を見れば、子供は親の気に入られるような成績に到達するために努力をしますが、その親の期待に応えられなくなると、病弱になって、心配や看病で、親の関心を引く場合もあります。それは、決っして仮病ではなく、本人も治したいと思いながらも、治らないのです。

また、家族で思ったような愛情がもらえないと、暴走族や非行集団に入って、そこで集団欲を満たしたり、カルト宗教に入って、ふれあいを満たそうとする若者も現れます。

特に学生時代は世界が狭いのです。小さな教室は、彼らにとって世界です。結果、クラスで無視されたら「死にたい」と思うほど深刻になるのです。

大人ならば「この集団で、ふれあいが無くても、他の集団があるさ」と、いい意味で開き直れもします。それが学生時代は、そう簡単にはいかない。

ですから、今回の桜宮高校のバスケット部の顧問とキャプテンの生徒との二人に起こったことは悲劇なのです。

自殺した生徒は、学校という世界、とりわけ顧問との二人の関係は、きわめて重要で大切な世界だったのです。彼にとっては世界の中心、それくらい深く大切なものだったのです。だからこそ、彼は人一倍クラブを真面目に取り組み、今まで苦しいキャプテンの職務をシッカリ遂行できたのです。

彼にとって、顧問の先生の存在は大きかったのです。その証拠に卒業生からは「熱心な先生だった」と嘆願する声も少なくはない。

ただ、この顧問の先生は、思春期の彼らにとって、自分の存在が、いかに大きな存在であるかの自覚さが、なさ過ぎた。もし、教育のプロとして、それを十分に理解していれば、あのキャプテンである生徒との関係もギリギリ回避でき、彼は死ぬところまで追い込まれなかったのかもしれない。

そして、嘆願した卒業生と同じような「あの頃に厳しくご指導いただけたので、自分は大人になって、どんなツラくても乗り越えられます。だから今は感謝しています」とコインの裏と表のように、美談で終わったのかもしれないと思ったりもするのです。それほど、思春期の柔らかい心は身体に反して繊細なのです。

もちろん、僕は暴力を肯定しているのでは決っしてありません。決っして何十発も殴るなど教育ではありません。ただ、暴力の問題だけが社会でクローズアップされているようで心配なのです。

貧民の国に行った時、店の親方に頭を何度も叩かれても、目を輝かせて働いている子供たちに、僕は涙しました。でも、彼らは生きていることに一生懸命だったし、不思議なことに親方を、子供たちはキライにはなってはいなかった。

あの桜宮のキャプテンが肉体的な暴力で死んだのか、顧問との会話のやり取りで、大切な師弟関係に絶望した結果、彼が死を選んだのかを、思春期の時期を考える時に、深く掘り下げる必要があると思うのです。

彼らにとって、世界は狭く限定されています。その世界の中心で、あの顧問が放った「お前は二軍落ちだからなぁ」が、キャプテンには、絶望感となったとしたら、こんなに僕は努力しても報われない、自分は愛されてなどいない・・・・この思春期の彼にとって、この先生の放った言葉が「世界から見捨てられた!」と思い、絶望し、死を決心させる致命傷になったように僕には思うのです。

決っして暴力だけではない、何気ない言葉の絶望。
photo:01
人は冬山で遭難しても、寒さや空腹にはある程度、人は耐えられます。でも、そこに絶望が加わった時には、人は、もろくも死にます。

何が言いたいのかと言うと、教育現場での行き過ぎた指導と暴力だけが、社会で話題になっています。では、暴力を使わなければよいのか。で、終わらせてはいけないのです。言葉や態度が人に与える絶望感にも、心理カウンセラーとして教育者は関心を向けて欲しいのです。

そして、家庭の中でも、たとえ暴力がなくとも、人は親子関係のちょっとした会話の無関心さや、関係性が途絶えた瞬間にある、子供たちの絶望感にも、今回の事件を通して大人たちは深く掘り下げて考えてみたいものです。

これは「ある学校の行き過ぎた指導」という事件ではなく、あなたの子供に向ける言動にも、注意を喚起させる警笛にならないとダメなのです。

 - ブログ

>