批判よりも感動しよう!

      2019/04/21

 2018年 FIFA WORLD杯(W杯)が盛り上がっています。

 


 にわかサッカー評論家が身近に増えはじめました。もちろん、テレビや新聞も、その騒ぎは大変なものです。大きく変わると書いて「大変」と読みます。
 そう、大変に、大きく変わったのです。「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言いますが、勝利すれば正義になり、負ければ悪役の汚名を着させられる。

 そして、勝利すれば、批判していた人までもが、自分が過去に言っていたことを忘れて、昔からの応援団のような顔をするのは現代社会の得意とするところ。

 監督が急に変わって間に合うか?
 オッサン選手で揃えた日本?
 またもや、本田のビックマウスか?

 と、色んな批判は、それほどサッカーに興味がない僕の耳にも入って来ていました。でも、やっぱり僕も気になってテレビで遅くまで観戦してしまいます。

 危うく僕も「後半、流れが変わった時に、選手交代すべきだろう」とか、「キーパー、そこはパンチングでなく、キャッチじゃないの〜」などと一人で観戦していたから、声は出さなくても、応援の中にも僕の批判家がチラホラ出てくるシーンもありました。

 でも、そんな自分を「猛省💦」する瞬間がありました。東京からの帰りの飛行機の中で「何か新聞など読まれますか?」と優しく声をかけていただいた受講生のCA(キャビンアテンダント)さんから手渡されたスポーツ紙の本田圭佑選手のセリフに、僕は目が覚めました。

 「ちゃんと見てほしい。結果だけでなくて。代表にいる連中は日本人が想像もできないような努力をしてきて、ここの場所にいる。それをしっかり見てほしい。僕は叩かれることに感謝している。楽しんでいるが、そうじゃない人もいる。そこ(評価)の上げ下げを楽しむのは、僕だけにしてほしい」

 僕たちは何もしないで、家の中で「ああだ!こうだ!」と、批判家精神だけを振りかざす。

 


 学生時代に文化祭実行委員をした時に、参加していない人間に限って文句を言い、足並みを乱して、成功を祝う打ち上げでは、一番感動して大騒ぎしていた仲間に「あゝは、なりたくないなぁ」と、戒めた若き頃の決意を僕は忘れていました。そう、踊るアホぅに、見るアホぅなら、踊る側にいるほうを選ぶと決めたのです。批判するくらいなら、何でも行動し、される側へと!

 陰で陰口を言う側より、言われる側のほうが、人生を楽しく生きていると、信じていた自分自身が、テレビを観るだけの僕が、一生懸命に汗をかいている選手を、裁くなんてスポーツとはいえ反省しました。もちろん、スポーツですから批評、批判する側を、僕が責めるのも問題です。これからは批判の中にあっても、中立で穏やかに笑っていようと思います。

 


 有名な走り幅跳びの選手が、新聞で「彼の時代は終わった…」「飛べない〇〇選手」やがて「なぜ、彼は記録が破れない」が彼の代名詞になっていた。グランドに行くたびに「また、跳べねえよ。だらしねぇなぁ」と、スタンドからの心ない声も耳に入ってくる。そんな時に、若い彼は「この野郎!どんな気持ちでここに来ているかを知っているのか!スパイク貸してやるから、テメエ跳んでみろよ」と暴言を吐きたくなるのを一生懸命に抑えた。しかし、やがて彼は自殺まで考えてしまう。

 そんな死ぬほど苦しい練習中に、彼はふと考えた「跳ぶなんて、カンガルーでも、カエルでも、バッタでも跳べるさ!たかだか、走り幅跳び、好きで跳んでるんだ。僕は記録の奴隷じゃない。誰もが好きに言えばいいさ!あの空が近づく感じが、子どもの頃から好きだった!」そう思うと心がスーっと軽くなった。「僕が跳んでも、跳ばなくても世界は変わらないし。世界が終わるわけではない。何で、僕は世界を背負っていたんだ??」まさに、森田療法の言う「囚われからの脱脚」です。

 


 そして、彼は練習が楽しくなる。「そう、カエルだって跳べる距離じゃないか!」と…みるみる身体も心も軽くなる。

 そして、彼は次の公式試合で、新記録を樹立するのです。「カエルだって跳べる」と思って出した新記録、その記録までの数cmを達成したのでした。

 


 グランドでスポーツ記者達に囲まれ「今、どんな気持ちですか?」それに応えて、彼は「今、死んでもイイです」と男泣きをしたのです。そう、カエルだって跳べる距離の中に、死んでもイイ感動が隠れていたのです。

 僕の好きだった先生は、現代人に失われているのは「この感動だ!」と教えてくれました!

 死にものぐるいに努力した者が、導き出した「カエルだって跳べる」は、努力した人の救いになるが、努力もしない人間が、シラけた日常に寝そべって「あの数cmくらいなら、カエルだって跳べるよ(笑)」とアザ笑った瞬間に「数cm」の中に潜んでいる「死んでも、いいような感動」を、シラけた人間には、とうてい味わうことはできません。

 人は大人になると「良いだの、悪いだの」批判精神だけを身につけてしまいます。

 努力もしないで何かを批判することで、自分が少し偉くなった気になるのです。何か話題になっている小説を、よく読んでもいない人が、何かの批評文の一部を流用しただけで「あの小説にはリアリティがない」と言えば、似たような単純な人ほど「スゲ〜ぇ」となる。その言動は、周囲から一瞬で注目をされ、関心を引く効果が驚くほどあります。

 でも、これはなんの事はない、努力しない人が、エネルギーが少なくてすむ、レベルの低いパフォーマンスにほかならないのです。残念なことに、いつも、あれこれ批判をくり返す人は、自分自身が何か行動する時にも、批判精神が自分自身に向いてしまい、やがて、本人も生きる感動が失われてしまいます。人を遠まきで裁く、批評家精神だけが肥大した存在になってしまうのです。

 批判より、相手の美点を見つけて、プラスに評価するほうが、観察力も、知的センスも必要になります。それには発想の柔軟性も必要になるのです。

 知恵のある優しい人は、色んなバリエーションを持って考えるので「こうも考えられるし、ああも考えられる」とすべてに対して柔軟性と包容力を発揮します。また、相手の立場になって考えられるから、相手の意見を聴く余裕もあるので、自分の考えだけに執着しません。

 

 しかし、人間力がなく、真のコミュニケーション能力のない人は、つねに最初から決めてかかるから、勢いはあるが、後がなく、いつも自分が正しいと信じ込んでいるので、相手と意見がぶつかると、すぐに感情的になり、ヒステリックに自己主張だけを、何度も繰り返す結果になります。そんな石頭タイプの人は柔軟性も包容力も持ち合わせていない頑固者なのです。

 石頭タイプの人との会話は「考えを広げ、発展させよう」ではなく、勝つことだけに執着しているので、会話した相手は、なぜか疲れてしまうのです。そうすると、会話していた相手は「そうですね…」と、なって会話を断念してしまいます。

 さらに悪いことに、ヒステリックな人は、相手が会話を中断したのは、話し合いを断念したと気づかないで、会話に勝利したと思い込むから、より鼻息が荒くなる。

 勝ち敗けにこだわると、戦争時のように、人は不寛容で、残酷になります。

 色んな角度から、考えられる、穏やかな大人になりたいものです。僕も勝ち負けにこだわって、相手のチームの努力も、陰で支えていた選手への拍手も忘れていました。飛行機の中で心より反省しました。

 今回、長友選手も「同学年の本田選手が入れた得点が、自分のことのように嬉しかった。おっさん達が作ったゴールです(笑)」と語りました。さらに、本田選手もベンチにいても「単純に一点一点が嬉しかった。人のゴールも、自分が得点したみたいに気分が高揚した…」と語っていました。

 


 勝っても、負けても、彼らは「今」を生きているのです。

 そう、周囲の言葉なんか、気にしない世界で…シラけた批判精神には、とうてい分からない感動の「数cm」と「ボールの先」に彼らは生きている。

 僕も、踊る側で、いつも生きよう!

 

 

 

 

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