愚かさが愚かなのではなく、そこから学ばないことが真の愚かさなのです。
2019/04/21
保守派の安倍総理のことだから、謝罪や反省が少ないのではないかと発表前からささやかれていましたが、結果的には謝罪や反省の言葉もあり胸をなでおろしました。
アメリカで勉強している時に、韓国や中国の友だちが沢山できました。ある時に「いつか僕の故郷に来てくれよ」と誘われたことがありました。
インディアンと共に過ごし、白人が彼らの聖なる儀式を禁止させ、彼らの言葉を奪い、重労働に従事させられたことが、いかに屈辱に満ちたものであるかを知った僕は、親しくしてくれる彼らに「大東亜共栄圏をという大義のために、隣国である君たちに日本語を強要し、君たちの伝統文化を排除し、重労働に従事させ、迷惑をかけた過去の出来事を、日本人として心から反省し申し訳なく思っている」と自分の思いを伝えました。
彼らは目を丸くして「あれは俺たちのおじいちゃん、おばあちゃんの時代のことだし、年配者は怒っている人もいるけれど、俺たちとノブは兄弟だろ!気にしなくていいよ。お前なら家族も大歓迎さ!」と、肩を叩いて心から笑ってくれました。
後に、彼らの一人が、僕に耳打ちしてくれました。あの後に「あんな日本人がいるのか? ノブは特別だからか…でも、日本人のイメージが少し変わった」と口ぐちに話していたと教えてくれました。日頃は、親しくはしていても、やはり「日本人は謝らない国民なのだ」と思われていたのだと複雑な思いにかられました。
「俺は相手に謝罪したよ」と言っても、相手は「謝罪された気がしない」と言えば、それは謝罪する側が、誠意を持って対応しなくてはいけないのが謝罪だと思っています。「謝罪は終わった」とは、謝罪される側が言うことであり、謝罪する側が「謝罪は決着しているんだ!」と胸を張るものではないように思えます。
70年談話の中で、安倍総理は、わが国は謝罪として戦後一貫、他の地域の平和と発展のために力を注いで来ましたと語りました。
これは以前から繰り返してきた日本の言い分です。しっかりとした事実への謝罪の言葉ではなく「ODAや円借款などで、他国に金をまいて来たでしょ。具体的には謝らないけれど、誠意は、なんとなく感じて下さいよ」となる。これは、お金を使っても実りが少なく、より嫌われる外交政策のミスだと思っています。国と国の交渉でも、結局は心と心なのです。
例えるなら、 友人にケガをさせた事実には、直接に謝罪しないで「状況の流れで起こったトラブルなんだから、いろいろとお金を使って、お前にはおごって来たじゃないか、そろそろ俺の気持ちをくんでくれよ」となります。これが、日本の政府が世界に向けてやってきたやり方なのです。
今回の安倍総理の談話では「子や孫、その先の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と述べました。「謝罪の繰り返しはしませんよ」と歴史問題に終止符を打とうした試みです。
確かに今の日本の子ども達には責任はありません。当時の特攻隊員のように身近な愛する人の命を守るために散った英霊たちにも責任はありません。戦争を始めた人達によって、日常の生活を踏みにじられたのです。空襲や原爆で苦しんだ非戦闘員だった普通の人びとも、やはり戦争の被害者なのです。
この文面と比較して、ドイツの国際外交は日本に比べてうまく行っているのは、なぜでしょうか?
ヴァイツゼッカー大統領は終戦40周年の記念演説の中で「ドイツの国民は、罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」
そして、過去のナチス、ドイツを徹底的に糾弾しました。これらの帝国主義を間違いだったと認めた考えです。それを国民一人一人が止めることが出来なかったことにも深い反省と後悔を持って、歴史を見つめています。そして、最後にドイツの一般の国民も、ナチの被害者なのだと、国民と軍部を切り離したのです。
ドイツも日本と同じように発展しましたし、今もなお発展しています。ドイツの若者の中には「平和で裕福な『今の幸せという遺産』を受け入れるなら、過去の『負の遺産』も、我々ドイツの若者は受け入れるのは当然だよ」という精神が浸透しています。でも、彼らドイツ人は自信を失ってはいません。「なぜなら、過去に過ちを犯したから学ぶことが多かった…」と言います。日本の政府が言うように、認めたからと言って、自国を卑下して、子供たちが自虐的な国家になったりはしません。過ちから学ぶことが進歩への一歩なのです。
そんなドイツのお国柄だから、学校でもナチ体制下のドイツのことは批判的に教えるのが教育の基本になっています。戦争責任を否定したり、戦争時にドイツも良いことをしたとは誰も言いません。その教育を通して、人がどうして狂気の行動をとるのか? さらに、狂気化した大衆の愚かさを学ぶのです。にもかかわらず、彼らは自分たちの祖国に誇りを持っています。失敗から学ぶことの大切さが未来を決めるからです。
大日本帝国が近隣諸国にしたよりも、ずっと大きな被害をドイツは近隣諸国にもたらしました。でも、日本よりも周辺国から信頼を得ているのは、こうした教育がおこなわれ、過去の罪を子々孫々まで伝えるんだという信念が、ドイツ国民にはあるからです。それを理解しているからこそ近隣諸国も安心して、ドイツという国が二度とナチス時代に逆戻りしないという安心感を、ドイツ国民一人一人の中に感じているからです。
それに、比較して日本の人たちは、テレビやネットで「謝罪をしているのに受け入れてくれないのは、あの国は金銭目当てだ!」とか「奴らは恨みを忘れない国民性なんだ!」と「いつまでも、謝罪、謝罪と言うな!」と言うような風潮が多くの日本の報道やネットの書き込みに見られます。そうすると、近隣諸国は「やっぱり日本は、本気で謝罪をしていないし、軍国主義を反省していないのだ」と、やはり不安になります。
そうなると、中国も韓国もまた「日本人という国民 は」とか、「反省のない日本人」と、立場が違えば、お互いに「あの国全体が!」「奴らの、民族性が!」と、一人一人と会うことなく、やはりそれぞれの個性を一まとめにして、「奴らはそういう国民性だから」と、互いに憎しみの思いを深めていきます。
「あの国は」と単純化してしまう心が、お互いに不安を呼びさまし、気づいたら泥沼のような戦争へと優しい人びとをも導いていくのです。
たまたまテレビを観ていて、NHKのEテレに立花 隆さんの「次世代へのメッセージ」~我が原点、広島・長崎から~という放送がありました。
立花さんがライターとして、かけ出しの頃、画家の香月泰男さんの絵に惹かれたそうです。その中でも、シベリア抑留の絵の中にある「1945(赤い屍体)」に強く衝撃を受けたそうです。
・・・描かれているのは、香月さんが、中国からシベリアへ連れて行かれる時に、鉄道の線路脇に捨てられていた日本人の死体です。生皮を剥がれ、筋肉を示す、赤いスジが全身に走った赤い屍体。教科書の解剖図の人体、そのままの姿だったそうです。憎悪に駆られた中国人に殺されたに違いないと香月さんは瞬間に感じたようです。「日本人は、すごく悪い加害者的な行為を中国人に対してしてきたので、戦争が終わった途端に(中国人が)手近な日本人をつかまえて生皮を剥いだという歴史的な事実があったことを忘れないように「赤い肢体」を絵に描いた」そうです。
そのきっかけは、香月さんが日本に復員後に、広島の原爆で真っ黒焦げになって転がっている「黒い屍体」の写真を見た。黒い屍体を中心に、みんなが口をそろえて、ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキを叫んでいた。まるで戦争が原爆でしか存在しなかったかのように、日本の「黒い屍体」が戦争のすべてだとでも言うように…日本人は黒い屍体を見て被害者意識を持つことができたようだと…。
亡くなった画家の香月さんの意思をついで、立花 隆さんは語った「それにしても、人間の生皮を剥ぐという行為は、あまりにむごい。日本は、それほどの憎しみを生むほどに、中国人に残虐行為を、やはり行ったということではないのか? 誰とは知らぬ日本人の「赤い屍体」の責任は、誰に責任をとらすべきなのか? 再び赤い屍体を生み出さないためにはどうすればよいのか」…
立花さんは、続けて「だが少なくともこれだけのことはいえる。戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、被害者の『黒い屍体』からではなく、加害者でもある『赤い屍体』から生まれ出なければならない」と。
僕は考えます。赤い屍体も、黒い屍体も、何も語りません。
でも、彼らの死のゆくえは?死の意味は?
ただ、言えることは、いつも悲しい思いをするのは、政治家ではなく「皆がそう言っている」という言葉に右往左往する、普通の平和な人達なのです。