幸せを発見するフィールド
2019/04/21
イーグルは獲物を取れなかったことを、いつまでも後悔なんかしないで、悠然と次の獲物を狙って飛び続けます。
花々は、彼女のほうがお日さまに照らされていて「イイなぁ」と羨むこともない。
自然は「どう生きないといけないか」を教えてくれる最高の先生だよとアメリカ・インディアンは語ります。
自然をよく、よく観察してごらん。
風の豊かさを知りたければ、タンポポの綿毛(綿帽子)に聞けばいい。
水の優しさと厳しさを知りたければ、シャケの人生が、それを教えてくれるだろう。
大地に触れる幸せを知りたければ、ナメクジを真似て、大地を抱きしめればいい。
変化することの素晴らしさを知りたければ、蝶々のサナギを観察し、木々の色づく葉っぱに訊ねるてみるがよい。
忍耐の意味を知りたければセミの声が、土の中にいた日々を語ってくれるだろう。
旅立ちが、成長につながると、渡り鳥を観て覚えなさい。
変わらない動きの中にこそ、安定があることは、ハチドリが教えてくれる・・・
僕の好きな詩に、こんな一説があります。
To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.
一粒の砂の中に世界をみる
一本の野の花の中に天国をみる
つかみなさい 君の手のひらに無限を
ひとときの中に永遠を・・・
この詩のように、ひとときの中に永遠を感じることがあります。
一瞬一瞬の、この瞬間は、もう二度とは戻っては来ない。一生懸命に人を愛して、人と関わった人には、後悔の二文字はないのかもしれません。
たとえ、勝利しなくても一生懸命にグランドで汗を流したことは、将来のツラさを乗り越える勇気になります。
商談が成立しなくても、商談のために準備した、仲間との日々はキラキラとした職場の思い出に変わります。
誰かを心から愛した日の思い出は、愛した者に瞳の輝きを与えます。
親子関係も、たとえ子どもが親から離れて行っても、子どもがどこかで元気で生きていることに、幸せを感じることが親子愛なのでしょう。
でも、成功や結婚、恩返しが目的の「ひととき」は、後悔の二文字につながるのかもしれません。その目標に到達しない「ひととき」は、目的思考の人たちにとって意味がないものになってしまいます。
まるで、オセロが白から黒に一挙に変わるように…
聖書でイエス・キリストも「人は食べたもので汚れることはないが、口から出て行く言葉で、その人自身を汚してしまいます」(マタイによる福音書)
ムダだった、意味がなかった、愛さなければよかった…と言う言葉が思い出を台無しにしてしまいます。
人は誰でも正義があります。そこから離れた行為は、すべて悪になってしまいます。
そして、その善悪を絶対化するために仲間を求めます。そして、その口から出た怒りの言葉で、周囲をも怒りの炎で燃やしてしまうのです。本人が冷めても、周囲がそれにまた火をつけて広げてしまいます。
自分の「正義」に異論を唱える人は 無意識に “敵” になってしまいます。
その客観的な意見をも攻撃し打ち負かすために、自分の持っている負のエネルギーを総動員してしまうのです。
その正義の “正当性” が、誰かをも傷つけるかもしれないことに気づかないで…。
そして、美しかった思い出をも、汚れた出来事にしてしまうのです。
愛した人や、誰かを攻撃する人を見て、僕はその行為そのものに「悲しみと、淋しさ」を感じてしまいます。
やっぱり傷つけるよりも、傷つけられたほうが良いのではと…傷つけた側が、誰かを傷つける側になることに虚しさを感じてしまうから。この世界で起こっている争いのように…
「汚れる」とは「気が枯れる」と言われています。怒りの感情は人を弱らせます。判断力をも歪ませてしまいます。
そんな時には、大分の禅坊主が教えてくれた「喫茶去」を思い出します。
これは単純に「まぁ、お茶でも飲みませんか?」と言うような意味です。
ある時に新入りの修行僧が、偉いお坊さんにたずねました。
「師の修行の心構えを教えて下さい」
「お前さんはご飯を食べましたか?」
「はい、それはいただきました」
「では、お鉢を洗っておきなさい」
この師匠の言葉で、新入りの修行僧は「悟り」を開いたと言うのです。
僕たちは、いつも食事をしていてもアレコレと何かを考えて、食事やお茶を心から楽しんではいません。
「この後は修行しなければ…」
「あいつだけは許せない」
「どうして、この子の成績は上がらないの」
「今日言われたことは、こちらをバカにしているに違いない」
イライラしていては、一杯のお茶も楽しめません。一杯のお茶にも、お茶が歴史的に伝わり日本の緑茶が出来るまで、飽くなき茶師の苦労が一杯のお茶の中に脈々と流れています。
一杯のお茶にも、永遠の時が隠れています。
悲しい時や怒っている時は 、縁側でお茶でも飲みながら「あんな時代もあったわね」と日向ぼっこしている老賢人のように未来から、今日の自分の思い出を眺めるように客観視して見よう。
ちなみに「永遠」とは「アイオーン」というギリシャ語で「始まりも終わりもない」という意味です。始まりがあれば、終わりがあります。であるならば「終わらないためには、始めないことなんだ」と感心したことがあります。
永遠とは「結果がもともとなかった」ことです。
そう、やっぱり結果なんて「クソくらえ!」です。
今に生きよ!