孤独と戦う方法
2019/04/21
最近、大切な人を亡くされた人のお話を聴くことが続きました。
もちろん、大切な人の死は、喪失体験の究極ですが、恋愛や仕事を失うことも、やはり喪失感でいっぱいになります。
そうした悲しむ人々に追い打ちをかけるのは、それが「自分だけに起こってしまったのだ」と、より孤独になることです。「世界の中で一番の孤独を背負ってしまった」と思うことにより、さらに孤独を感じ落ち込むのです。
もちろん、理屈で考えれば「誰にも別れはあって、自分だけではない」とは考えられます。しかし、人は誰もが自分の世界の中で生きています。頭では「誰にも別れはある」と理解できても、感覚の世界では、人は自分自身が、世界の中心です。ですから「この孤独は、誰にも理解されることはないし、この失った関係性は特別なものだから、この悲しみは誰にもわかることはない」と、より孤独感を深めます。
僕も、青年期には、夕暮れが来て街に明かりが灯りだす頃になると、無性にもの悲しさを感じました。
自分だけが世界の中で取り残されているように感じ、胸が締めつけられ、そんな深い孤独感を感じたことがありました。それは、何か大きな忘れ物をしたようでもあり、間違った道を歩んでしまったような気になり「きっと、もう取り返しがつかないのだ」と焦りというか、不安というか、そんな、なんともやるせない気持ちに襲われたりもしました。
幸か不幸か、カウンセラーになり、いろんな人の相談にのるようになると、この感覚は自分だけの特別なものではなく、誰にもある感覚なのだと理解できるようになりました。
そうなると、ある種の達観というか、軽い悟り(本当に軽い…σ^_^;)というか、「誰もがそんな孤独を抱え、多かれ少なかれ人は一生懸命に生きているのだ」と知ることが出来たのです。
これを僕は「目には見えない連帯感」と呼んでいます。「自分だけ」から「誰にもある」を感じて生きることで、生きることが楽になったような気がします。
多くの悩みを知ると「みんな孤独を生きている」と知って、一生懸命にこの世界で生きている人びとに連帯感を感じられるようになりました。街の灯しびや、行き交う人をみて「みんな孤独だけど頑張ろうね!」と心の中で小さく声をかけるようになりました。
この考えの真逆が通り魔です。街に出て「みんな巧く、楽に、生きやがって💢!!」と、自分だけが一番の不幸だと勝手に思い込み、社会に嫉妬し、刃物をふるって、誰かれなしに襲いかかる。それが、通り魔なのでしょう。こんな人こそメンタルで心理学を学べばよかったのにと悲しくなります。
生きること、それは母の胎から離れて誰もが孤独なのです。
心理学の世界では生まれることは、死ぬことだという考えかたも根強く存在しています。つまり、人は誕生の時に一度死んで、そして生まれてくるという考え方です。胎児は子宮の羊水の中で生きています。その期間は、肺呼吸ではありません。でも、この世に誕生した瞬間から自立呼吸にかわり、肺呼吸に強制的に代わります。赤ちゃんが生まれる時の産声は、魚が陸に打ち上げられた時にする、あっぷ💦あっぷ💦と同じ状態だと言うのです。そして、僕たちは肺呼吸に変化して、親の胎から自立して「一人で孤独に生きる」ゲームに参加するのです。ですから、人は一度誕生で死んで、生まれて来る。そのため、死は第二の死であり、新たな誕生だとも言えるのかもしれません。
「え⁈そんなゲームに参加したくなかった」それは、残念!!
ならば放棄しますか?
でもそれは強制的に、またもっと過酷な人生というゲームに参加しなければならないかもしれませんよ。なぜなら、「自殺」は、このゲームからの脱走になるからです。このような考えかたが仏教でもあり、キリスト教でもあるのです。多くの宗教に、似たような発想があります。
とするなら病気でも、老衰でも、不慮の事故でも、本人の意識と関係なく亡くなることは、もしかして受刑期間からの釈放かもしれません。どうです?心理療法的なゲシュタルトの発想でしょう。
世界各国の2万人の臨死体験者(一時的に心肺停止し息を吹き返した人々)に対し、科学的調査とインタビューでデーターを集めた、キューブラー・ロス博士は、死後の世界があるか、ないかは別にして、病院で蘇生した患者に「あなたは死んでいる間はどういう体験をされましたか?」と、世界の主要な病院でインタビューをしました。
その結果、臨死体験者には共通した体験が三つあったそうです。
一つは、意識を失ったあと、自分の肉体をハッキリと見たと体験者は言うのです。わかりやすく言うと、ベッドの上に自分が横たわっていて、それを家族や医者が取り巻いている光景が鮮明に見えたと言うのです。実際にロス博士が立ち会った例では、まったく目の見えなかった老婦人が、意識が回復したあとに「先生はあの時に、こういう服装をして私のベッドの傍らに立っておられました」とそのロス博士の服装の色や、家族の立ち位置やそれぞれの服装まで言い当てたそうです。もちろん、息を吹き返した時には、また目は見えなくなっていました。
さらに、肉体から出た時に、時間と空間がなくなるという感覚をあげています。たとえば、サンフランシスコで死んでも、ニューヨークのお母さんが何をしているか、ということがハッキリわかったと言うのです。会いたいと思った時に、距離、時間の制約を受けなかったと言うのです。
二番目の共通している体験は、かつて亡くなった人たちの中で、自分を愛してくれた人、たとえば、親とか兄弟姉妹とか、愛した人が自分のそばに来ているとことを感覚的に強く感じ、かたわらにいて自分を助けようとしているのがわかったそうです。
三番目には、キューブラー・ロスの言葉によると、多くの人たちが、優しさに満ちた、何とも言えない柔らかく、安心できる光に包まれたというのです。しかし、その奥までには行くことができないまま、息を吹き返してしまったそうです。
これらの報告を、ロス博士は宗教やイデオロギーめいた宣伝をするためではなく、一人の医者として、アンケートの事実だけを淡々と報告しています。
アメリカインディアンは、亡くなる時には、畳の上ではなく、大地の上で亡くなることを望みます。彼らは「大地にはたくさんの愛する仲間がカタチを変えて、自分たちを応援してくれている」と考えているからです。
現代科学がたどりついた結論は、この大地も、そこに咲く草花も、人間も、空気も海もすべて、もとをたどれば、同じ素粒子から出来ています。知恵を持った人間だけに特別な素粒子はないのです。宇宙のどこにでも存在する素粒子で、僕たちの身体はできています。やがて僕たちも風や川のせせらぎになって、この大地にもどって行くのです。すべてと出会える場所へと…
「私たちが大地の上を歩くときに、いつも愛と慎重さをもって一歩、一歩進むのは、地面の下から私たちのことを、愛をもって支えてくれる存在がいるからだ。私たちはそのことを、片時も忘れない」~オノンダーガ族の言葉~
ネイティヴ・アメリカンの友は言った。「淋しい時は、モカシン(靴)を脱いで大地をゆっくり歩いてごらん。先祖の魂がお前に力をくれるから…」
そう、大地にいるかぎり君は決して孤独ではない!