口開裁判

      2019/04/21

 司法試験に落ちた教え子に、司法試験の問題を教えた大学教授がいました。司法試験に落ちて泣いている教え子の姿をみて、自分の娘が泣いている気持ちになって親心で、ついつい全て(名誉・家族・信用)を失うことを忘れ、自分が作った問題を何度もチャレンジさせ、完全な答えに仕上げたという。その完全なる答えゆえに事件は発覚した。司法試験を作る側であり、司法を指導している立場にいながら、この教授の行動は愚かだと僕も思う。


 常識や一般論で言えば…報道番組では、コメンテーター達が注目していたのは「娘というよりも異性に対するようなお付き合いだったのじゃないですか?」とゲスな勘ぐりがスタジオ中に広がり、司会者もコメンテーターも冷たい含み笑いを浮かべていた。


 でも、僕は人間には、そんな弱さがあるように思える。目の前で愛する人が泣くほど落ち込んでいると、立場を忘れてしまい、その愛する人にテコ入れしたくなる「魔がさす瞬間」があるのではないかと。それを想像もできないとは言いきれない。それが娘でも、恋人でも、友人であっても。それが人間の持っている愛情という名の愚かさかなのかもしれません。それを「考えられない」「想像すら、私にはできないですね」「エロ教授だね」と正義をかざして責めるコメンテーターのほうが、僕からは想像もできない遠い存在のように思えてならない。


 だから、テレビのコメンテーターにテレビ局から誘われても、僕が引き受けなかった理由なのだと思う。


 こんな時に僕は、ボソッと「人は弱いね…」と言ってしまいそうで…いやそう言えるなら、まだ出演したのかもしれない。そう言える強さがあれば自分でも納得ができよう。でも、周囲に合わせて「ありえないですよね」と、もし僕が、したり顔で周囲の顔色を気にして言ってしまったら、僕は僕がキライになりそうでイヤなのだと思う。いや逆に、周囲に同調してしまう弱さが、自分の中にあることを薄々、僕はどこかで知っている。だからコメンテーター達に自分の影を投影して不快な気分になるのだと思う。そして、誰かの愚かさに冷めたく切り捨てるコメンテーターに、僕の中にあるシャドーが反応して嫌悪感を持ってしまうのだろう。


 この愚かな教授が被告人席についてすぐに「あなたの今の職業は?」と、裁判官に聞かれ「東京都在住で、無職です」と名乗った。その彼の言葉に、家族の悲しみと、権威から落ちた人の哀れさを感じた。


 その前にあった報道内容が「蛍火の墓」の作者で「オモチャのチャチャチャ」の作詞家であった野坂昭如さんの死去があり、大島渚監督の結婚30周年で、大島監督が自ら野坂氏に祝辞を頼んでいたのに、野坂氏の祝辞を飛ばして別の人を次々と指名したことに野坂氏が腹を立て、待たされている間に泥酔してしまったこともあり、祝辞を述べた直後に大島監督を殴ってしまった経緯がある。そのシーンが何度もテレビで流されていた。

 ステキな文章や、愛のある歌を作る人も、その順番を忘れられたことに対してメラメラと腹が立って、突然に子どものように友人を殴ってしまうのです。


 テレビ画面に映る、祝宴の壇上で主役に殴りかかる場面は、非日常なシーンだけに「え~⁉」ってかなりの衝撃でした。祝辞を読み終えた直後に、親友にパンチですからね。


 ところが、そのシーンに対してコメンテーター諸君は「野坂さんは間違ったことには、向かって行く人だから」「自分の思ったことは貫く人」「また、時代の風雲児が消えました」と、愚かな愛にすべてを失った教授には冷たく、死んだ作者には、寛大な笑顔でのコメントが続く…


 上げたい人を上げ、下げたい人を下げる。それが番組作りなのでしょう。


 司法試験漏えい裁判をとり行った裁判長も、今まで司法の権威者だと思っていた人の、あまりにも幼稚な犯罪に、裁判長みずから質問を投げかけたにもかかわらず「もういいですよ。あいまいだから」と呆れた顔で「答弁している元教授に、冷たく言い放って、答弁を途中で切り捨たようです」と裁判を取材していたスタッフが語る。「そらそうでしょうよ。裁判官も、やれやれって感じでしょうから」「自分達と同じ出身の司法の信用を地に落としたんだから」とコメンテーターの冷ややかなコメントは続く。


 そう、権威から落ちた人には、世界は牙をむく。地に落ちた過去の権威者に、冷たくなるのは世の習わし。


 そんな、愚かな愛にすべてを失った教授に対する、裁判長の冷たさも、僕の中にも、やはりあるのでしょう。心の闇のどこかに影として存在するから、僕はなぜか失語症のごとく無口になってしまう。


 聖書の中に、不貞を犯した女性に、村人たちが石を持ち、皆で石を打ちつけ、その女性を処刑しようとした、まさにその時、村人を制止してイエス・キリストはこう言い放った。「あなた達の中で、一度も人生で、罪を犯したことがない人から、その愚かな女性に石を投げなさい」と。そうすると、処刑場から一人一人と村人が首をうなだれて出て行き、イエスと女性だけが残った。


 そのあいだ、イエスはうずくまって無言で床に文字を書きながら祈っていた。やがて「女よ、皆は、どこに行った?」とイエスは女性にたずねました。「村人たちは、皆、ここから出て行きました」そうか、では私も出て行こうと、その場所からイエスは出て行かれたそうです。


 今の時代も、あの頃の村人たちのように、人は出て行くのだろうか?自分達のことはさて置き、皆で女性に石を投げれるような気がしてならない。あまりにも知的な司会者と、常識的で正しいコメンテーターの発言を聴きながら、僕は公開処刑場のようなテレビのスイッチを切った。


 愛に愚かな教授も、子どものような野坂さんも、その同業者の犯した罪に冷ややかな裁判官も、きっと、僕の中にあるから、誰も正義の刃で斬りつけたくはない。だから、僕は無口になっている。


 いや、僕からは一番に遠い距離にあるだろうコメンテーター達が、誰かを正義の刃で、裁いている中で「そうなのかなぁ…人には、そんな愚かなぁところがね…あるのでは…」と自分の意見を言わないで、周囲に同調してしまう風見鶏的な発言も、きっと、僕の中にある。


 だから、僕はこうして細々とブログを書いています。どこにも持っていけない、やり切れない思いとともに。


 そう、今にも消え入りそうな反骨精神だけを頼りに。


 そして、イエスは、こうも言った「汝、人を裁くなかれ、いつの日か、自分がその正義で、誰かに裁かれないために」と…







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