千秋楽のその日まで•••••
2019/04/21
役割は永遠ではない。
妻という役割は、夫の他界と共に終わります。母親という役割は、子供の独り立ち共に、ほぼ終わります。部長という役割は、定年退職と共に、急激に終わります。
一つの役割が永遠だと信じて、ただ、それだけにエネルギーを注いでいた人が役割を喪失すると、エネルギーを向ける対象を失って、燃えつき症候群や空きの巣症候群におちいってしまいます。その落ち込みは激しいのです。
哀しいことに「この世は、さよならの連続なのかもしれません」でも、終わるからこそ、終わりを意識して「今、ここ」に集中して生きることも可能なのです。矢のごとく、過ぎ去って行く瞬間だからこそ「今、ここ」に気持ちを集中することをゲシュタルト療法は求めます。
すべてに終わりがあり、終わりを意識しないで、人と人との役割も永遠だと思っている人ほど、瞬間、瞬間の時を、人とのふれあいを、味わって生きていません。ですから、突然の喪失感に苦しむのです。
そして、失うものに執着するのです。
「この母より、お嫁さんのほうがいいのね」「こんなに会社のために生きてきたのに••••」「まだ、やり残しているのに••••」
今、体の中にあるこの命にも役割があり永遠ではないのです。今日という日にも、たくさんの細胞が役割を終え、そして新しい細胞が生まれます。今日という一日にも、体の中には、たくさんの別れがあるのです。その生ききった細胞に報いる一日を、僕たちは生きなければならないのです。
この今の瞬間のこの時も、今日の陽の光も、周囲の人の笑顔の輝きも、自分の呼吸も、この指先の中の細胞さえも、戻らない過去へとさよならして行くのです。
ならば、人生の「悲しみ」すらも、自分がよりよく「生きたい」こその悲しみの感情なのだと、しっかり味わうことが出来たなら、人は「生ききった!」と言えるのではないでしょうか。
僕たちが命の役割が終わった時に、どこに流れて行くのか、誰もわからない。
ならば、与えられた命の役を、汗をかき、涙を流し、お腹の底から叫んで、出しきることが役割を演じきることだと思うのです。
いつか来る命の千秋楽のその日を意識して、今日も最高の演戯をしましょう。