全体の中の「部分」を見つめてみよう

      2024/04/02

 僕たちは人を責める時に、何かの部分を見て誰かを責めたくなります。

 あたかも全体が、その部分の集合体だと思ってしまいます。「〇〇民族は」とか「自分はダメなんだ」とか「あのイヤな人」は、とかです。いったん、そこが中心になると、その民族に対立したり、自分に自信を失ったり、他人を嫌悪します。

 僕は「部分」と「全体」は分けないといけないと思っています。人も国も、つねに色んなものの集合体であり細かな背景が、それぞれにあります。

 

  

 現代は「分断の時代」です。

 コロナ禍でも自粛する人しない人、ワクチンを打つ人と打たない人にも、それぞれの背景がありました。でも、一つのパーツが自分の何かからズレていると、僕たちは「部分」を「全体」として受け取り、挨拶しないご近所の人に、「もう二度と挨拶なんかしない『イヤな人』だ」となってしまいます。

 それほどに100か0か、白か黒かで僕たちはレッテルを貼ってしまいがちになります。でも、このレッテルを貼る心の単純化は「部分」で「全体」を決めてしまい、戦争から人種差別まで歴史的に過ちを生みました。

  

 すべての正しさは時間経過とともに変わります。

 ジャニーズ問題や宝塚歌劇の出来事にしても、その時は「それが正解だ」と思っていても、時代の価値観や時代が過ぎ去って言えることもあります。

    

  

 戦争の時代にも「『なぜ戦わない』と叫べなかったのか!」「なぜ子どもを戦地に出すことが『おめでとうございます』なのだ」「『若者を特攻隊に出すのは異常だ!』と言えなかったのか」と当時の人を裁けば、当時の日本人は、戦争に反対し牢獄に入れられた政治犯を除けば、全員を裁くことになります。

 僕自身も、当時の立場であれば「叫べないムードだっただろう」と容易に想像はつくし、自分もその社会の中では政府に楯突くことは難しいだろうと思えます。

 時代の経過と、叫べる安全地帯にいる人が、その安心感の中で叫ぶのは自由です。でも大切なことは「部分」と「全体」を一緒にしないことだと思っています。

 今の日本大学のアメフト部問題も、「部分」と「全体」を分けないと「全員が真っ黒」になってしまいます。「日本大学の学生は」とか「宝塚歌劇の人は」とか「ジャニーズ事務所に所属していたタレントは」と…正しさは現代の魔女狩りにつながります。

 誰かを強く裁く時には、自分の中にある心の闇をも問われます。

 僕はどうも正義の側に立つコメンテーターや批評家を敬遠してしまうのは、そのせいなのだろうと感じています。

 自分の心の闇を知っている人が、他人の闇の包帯になれるかもしれません。

   

 

  

 


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心理カウンセラー衛藤信之
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