からまない風のように•••
2019/04/21
一部上場企業で顧問をしたりしていると、それぞれの業界で一流といわれる人と出会う機会があります。本当に「ステキだなぁ」と思う人にたくさん出会います。もちろん、ガッカリすることもありますが••••
でも、ステキな人々の共通点は「よいところを見つける達人」です。批判はたやすいですが、肯定的に考え、相手の美点を見つけるのは心の安定やセンスがいるからです。
インディアンの人々は、子供は「足らないところを指摘する」親の批判の中で育つと、批判精神だらけの大人に育つといいます。
相手にダメ出しして、欠けたところを指摘することで、自分が偉くなったように思わせるには都合がいい処世術だからです。
また、自分の持論を勢いまくし立てて、自分の子供じみた意見を守ったり、自分を頑として主張したりするにも都合がいいのが批判です。
なぜなら、何かの映画を観て、雑誌のその映画に対する批評文だけを猿まねして「あの映画には大切な主張がない」と受け売りの、あてずっぽの批評をすると、なんの根拠がないのに意外と周囲から注目されます。とくにインターネット社会やマスメディアでは、その意見は流し放題になります。
「あのチームは勝てないね」
「あの本は、筋立てが単純すぎる」
「あの演奏ではダメだね」
これは努力のいらない自己アピールです。異をとなえることは、努力する人よりも、簡単に周囲の注目を集めることができます。これこそ「汗のかかないパフォーマンス」です。
ですから、人生でこれと言って何も業績もあげずに、周囲や家族からうとまれている人が、見ず知らずの人に注目を集めるために簡単に向かうのが批判型人間です。
この批判型人間は、自分は真実を語る人。純粋な人間であり、正義の人と思っているのが心理的な特徴です。
さて、僕はいつも「人生は祭りだ」と思っています。祭りに参加していない人には重いものを背負ってバカみたいと思うことでも、参加している人には夢舞台です。その彼らの汗と努力をニヒルに笑う人を僕は好きになれないし、あんなものは「お金にもならないのに」と笑っている人の側にはいたくない。
踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら踊らな損そん
批判家に捧げる言葉は「冷める側にいるなら、汗をかく側に来ないか?」です。
なぜなら、批判するより、批判されるほうが注目される人だし、人を不愉快にしないから友達も多いのです。
先の批判よりも、
僕はダメだと言われても優勝の二文字を信じてグランドで汗をかいているチームや、くだらないと言われても一生懸命に人に喜んでもらうために本を書いたり、お金にはならない演奏でボランティアのように楽しんでいるほうが人生は楽しいと思うからです。
そして、人生がおだやかな人は言い争いが子供じみているので、言い合いになること、ムキになることを避ける傾向にあります(だから、批判家の意見だけが目立つ•••)。
ステキな大人は、どんなことにも、それなりの理由があり、わからないうちは事態の推移を、静かに観察することが最良だと知っているのです。
だから、ステキな上司は決めつけで、すぐに怒鳴りません。部下の立場に立ってものごとを考えるからです。こちらから見るとこう見えるが、あちらの立場ではこうなのかもしれないと••••
静かな人は相手の意見を受け入れる懐(ふところ)の深さがあります。
だから「弱い犬ほどよく吠える」と言いますが、器の大きな人は騒がないで、その状況や事態を静観しています。
逆に、批判型人間は最初から攻撃するのが目的だから、最初から「そうなのだ」と決めてボールを投げる。だから、柔軟性という人間の深さがないので、違う意見を聞くとムキになり自分の意見をまくし立てるだけで、相手の意見を聞いても聞いていない。心で打ち消しながら聞くので、心に入らないのです。
最初から決めつけてかかり、それしかないから後は口角泡を飛ばして、いきおいヒステリックに自己主張しつづけるしかなくなるのです。
前のブログで書いた「意味のない戦い」です。
人生に交戦的な人は、戦っている時間が惜しいとは思わないのです。僕はできればステキな時間を過ごしたいと思っています。
だから、ダメ出しの批評型人間より、何かの美点を見つける感動型人間でありたい。
ネイティブアメリカの人々は「爽やかな風のような人」になることが大切だと僕に言いました。
僕も何者にも、からまない「風のよう」でありたいと願います。