「自分は間違わない」という過ち…

      2019/04/21

 ある小学校の関連の本に、このような詩が書かれていた記憶があります。

 校庭で放課後クラブの練習。
 野球とサッカーとテニス。
 お互いにボールが飛んでくる。
 校庭が「狭いなぁ」と、みんなが不平を言っている。
 今日は、校庭で石ひろいと草むしり。みんなが校庭が「広いなぁ」と不平を言っている。

 とても、可愛らしく、微笑んでしまうような詩です。

 人は立場や状況が変わると、同じものを見ても、違って物事が見えてきます。

 ある人が、ポールの先で揺れている旗を見て「風が流れている」と言った。

 もう一人の人が風が流れているのではない。
 あれは「旗が揺れているのだ」とその人を訂正した。

 すると最初の人が、旗があっても、風という力が、なければ旗は揺れまい。だから、あれは「風が吹いているのだ」と、さらに、また相手を訂正しようとした。

 何を言うか、風は見えぬものよ、その見えぬものの存在を、知らせているのは旗なのだから、あれは「旗が揺れているのだ」と、お互いに甲乙つけがたく、ゆずることをしません。

 そこに通りかかった偉いお坊さんが、「あれは風が揺れているのでも、旗が揺れているのでもない‼
 お前さんたちの心が揺れているのだ‼」と喝破したのです。

 「あんたが、旗が揺れていると確信があれば『風が流れている』とこの人は信じているのだと思えばいい。

 お前さんも、風が吹いていると確信があれば『旗が揺れている』と、この人は信じているのだと思えば良いだけじゃろ。

 それを相手を『負かさねば』と思う心は、自分に確信がないから『相手に認めてもらわなければあせる』と不安になりムキになるのだ‼

 それほどに自分の心が、揺れるのは、
 自分に確信がないのだ‼パンチ!

 …と戒められたのです。

 自分に自信があれば、相手を脅威には感じない。

 相手を恐れれば、恐れるほどに、相手を抑え込みたくなるのです。

 僕は「日本のお母さんは~」と例えに使う時に「一般的には」とか「おうおうにして」と言う意味で話したりします。

 すると…

 「すべての日本のお母さんが、そんなお母さんでないでしょむかっ」と、かなり怒りを感じる手紙を頂戴することがあるのです。

 その通りなのです…アメリカのお母さんにも、お節介なお母さんがいますし、過干渉の父もいます。

 僕は誰かと意見が違っても「この人の考えなのだなぁ」と思うだけで終わります。

 自分が正しいと思うと、人はなんとも攻撃的になります。

 そして、その「正しさ」が間違う時があります。

 子供が小さい時には、一家そろって食事をするという幸せも、子供たちが大学生や社会人になれば、家族全員がそろうためには、自分の付き合いがある子供達は、友人の付き合いをかなぐり捨てて、家路を急がねばなりません。

 家族の幸せのために、子供たちの今ある幸せは失われます。

 子供達に「いい学校、上場企業に就職を‼ そして、経済こそ豊かな生活」と目標を強いることは今からの時代は、間違うかもしれませんね。

 なぜなら、現代のような日本の右下がりの経済動向の時代では、今の大人たちに比べ、子供たちが大人になる時代には、収入も頭打ち、右肩上がりの生活は望めない可能性のほうが大きいのです。

 そうなれば、彼らは思ったように収入が上がらない我が身を責めるようになり、期待した通りの就職が出来なかった自分の人生を悲観することになるでしょう。

 そうなると自分の目標に到達出来ないストレスで、これからは、ますますうつ病が増加するかもしれません。

 ならば、これからの親たちは「健康で、そこそこ食事が食べられて、余裕があるならば一輪でも花が飾れて、もし温かい、お風呂で温まることが出来たなら、人は幸せなのよ音譜」と、教えることが、右肩下がりの経済社会を生き抜く子供たちには大切な視点なのかもしれないのです。

 「今の若いものは上を目指さない」と思っているのは、右肩上がりを生きてきた僕たちの考えで、今の若者は、車もいらない、別に出世しなくても食べれれば良いと思っている(僕も好きではないが…)若い世代が増えている。

 この「省エネ型世代」の若者は、右肩下がりの時代の申し子(^-^)/なのかもしれません。

 「あなたの幸せのために」という、自分の人生観の押し付けは、相手の不幸を作ることもあるのです。

 さらに、自分の正しさを疑わないと失敗をすることも多いのです。

 ロシアのバルチック艦隊を撃破した日本海軍が、第二次世界大戦でも巨大空母、巨大戦艦の戦略にこだわり、ミッドウェイ海戦では大敗北をもたらしました。自分たちの「正しさの視点」を疑わなかったからです。

 すべての戦争は「自分たちの正しさ」で始まります。

 今、話題になっているオウム真理教の当時の幹部も、自分たちが「正しい」と信じていたから、あれだけ恐ろしいことをやれたのです。

 だから「私は間違っていない」という思いは、「疑うこと」もしないと本当に間違ってしまう可能性があるのです。

 ヨーロッパでは「地獄への道は、善意で舗装されている」という、ことわざがあります。

 6月13日に僕が書いたブログで、東北地方のガレキを自分達のところに持ってくるなというキャンペーンに、僕の率直な感想を載せました。

 読者の方から「放射能が含まれたガレキを日本にばら撒くのですか?」「あれは天下った運送業界の人たちのワナです」と指摘をいただきました。

 もちろん、僕の大切な読者の方なので、僕はこのようにお返事を書きました…

 「いつもブログを読んでもらって、ありがとうございます。

 それぞれの立場に思いがあり、それぞれに真実があるのでしょう。ですから、何が事実で、事実でないかは、それぞれの立場で確認はできません。

 ただ、僕は率直な感想を書いただけで、誰かを先導しようとか、こんな運動を起こそうとかの意図はありません。

 もちろん、読者が多くいるので影響はないと言えないのも十分にわかっています…

 でも、仙台でガレキの処理を自分の手でやった僕としては『それは危険だから自分のそばに持ってくるなぁ』と言われると東北で子育てしている、僕の友人や その家族の心情を考えると、あの感想になりました。

 『そのガレキの中に放射能物質が含まれていない』と言うのも信憑性がない情報なら『運搬業者が儲けたいから』のシナリオも、やはり信憑性がない情報かもしれませんね。

 ここで、僕は真実がどうかを議論したいのではなく、君の家にあるのは危険な物だから、わが家には持ち込まないでとは言えない僕がいただけなのです…ただ、それだけです。

 隣人の家に危険な物があるなら、僕は一緒に片付けの手伝いをしてから、この危険物について、どうするかの意見を言いたいと思っています。

 窓の外がガスで充満していて、相手が苦しんでいるなら、それで『自分が、死ぬかもしれない』けれど、僕はサッシの窓ガラスを開けることを選びたいと思っています。

 窓を閉め続けて、相手がガスに苦しんでいるのを『ガスだから。ごめんなさいね』とは言えない僕がいます。

 僕にも子供が二人いますが、身体が健康で生きるよりも、心が健康で生きることを僕は教えています。長生きするよりも、人として死ぬことを求めます。

 僕も原子力エネルギーが大嫌いです。でも、それを容認して生きて来たのが今までの日本人なら、僕も同じ日本人として、罪は同罪でかぶるべきだと思っています。

 同じ日本人として、どこまでがお隣で、どこからが我が家なのでしょうか?

 申し訳ありません。これが僕と僕の家族の生き方なのです。

 ブログは一意見としての感想です。

 それぞれに違いがあっても、よいのではないかとも思います。ブログの内容を取り下げるという、ご期待に応じることが出来なくて、本当にごめんなさい。

 あなたは、あなたの意見でいいのです。これはどちらが正しいかジャッジすることではなく、どちらの意見も『間違い』はないのです。『お互いの「間」に違い』があるだけなのです。ご指摘ありがとうございました。そして、ごめんなさい。」と…

 もちろん、メッセージをいただいた方からも丁重に、メッセージを返していただきました。

 ありがたいことです。

 色々な意見を言い合えることが、また、幸せな社会なのかもしれないとも思っています。

 国によって、教祖によって、政党によって、自分が言いたいことが言えないことが、危険なコトかもしれませんね。

 金子みすずの「みんなちがって、みんないい」を噛みしめながら…






日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき





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