「今、ここを生きる」
「考える」ということ「行動する」ということ。どちらのほうが大切か?
盤珪(はんけい)禅師が山科の寺に住んでいた時のこと。
愛弟子に京都に上質な紙を買いに行かせました。でも、弟子が買った紙を見て、師匠は「ならぬ」と目を閉じた。
そこで弟子は、また買いに町に出る。でも2度目も「ダメだ」と否定される。優秀な弟子は、頭を悩ませる「どれを選んだら良いのか!」また山を降りて京市に買いに行く。それを持ち帰った3度目も「ダメだ!」と目を閉じた師匠。
そこで弟子は自分の愚かさに気づき“悟った!“のです。
師匠に言います。「最初ので良かったのですね!」師匠は答えた。「そう、お前が自信を持って買ってきたら、それで良かったのじゃあ」
彼が責められたのは「間違い」ではなく「迷い」だったのです。
この禅問答が教えるところは、「自分なりに『これしかできぬ!』仕事を日々しているか?」です。もし、その瞬間に弟子が一生懸命に考えて決断をし、迷いがなければ「それでは、他の者に使いをやって下さい。私はこれが最善だと思って買って来たのです」と胸を張って言うか、その紙を丸めて師匠の頭に「ポカリ!」と叩き、その優劣をつける心を「紙は紙!無分別!」と言うべきです。それが禅者らしい反応です。
この話は、会社で上司に楯を突くことをススメているのではなく「これしかない!」という仕事をいつもしているかという教えです。どこかに「手を抜いた」「もう少し出来たかなぁ」という思いがあるなら、それが「迷い」です。だから弟子は3度も山を降りることになりました。
電車で老人が自分の前に立った時に「立つべきか、立たざるべきか」と思っていると余計に立ちづらくなりませんか。タイミングをズラすと、どんどん迷いが出ます。
「おっと!向こうに立っている人のほうがさらに老人か?どちらに譲ろう」「おいおい、俺より若い奴が座ってスマホでゲームしている。こいつが立つべきだ」「俺が立つことで周囲は『アイツ正義、気取りかよ』と思われないか?」「そもそも老人がシルバーシートの前に立てば良いのに」「これからは老人も立つことで健康に役立つからなぁ…」
禅が嫌うのは、そんなくだらない迷い(煩悩)です。譲るならさっさと譲れば良いし、譲る気がないなら迷う必要がありません。心の中でグダグダ考えても老人は座れません。思考だけだと自分も老人にも役に立たないのです。
その余計な思考(煩悩)を禅は一番嫌うのです。さっさと動けです。
「思考」を優先させる時代です。
身体が寒さに震えているのに「まだ9月だ。この半袖で頑張れるはずだ」とやせ我慢して風邪をひく人がいます。
もう病気が治っているのに「医者から6日分の薬をもらったのよ」と、元気になった子どもを一生懸命に寝かしつけようとする母親がいます。
雨が降りそうな曇りに「このアプリによると、雨が降ると表示されていない」と「この空がおかしい」と傘を持たない人がいます。
これは笑い話ではなく真実です。
だから「思考」よりも「感じろ」です。お金がいくら貯まるかの未来を不安になる人よりも「今生きている奇跡を味わえ」です。それが禅の「即刻、只今、此処」だし、心理学では「今、ここを生きる」なのです。
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心理カウンセラー衛藤信之
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