敬老の日に思う…

   

 誰もが老いてゆきます。それは誰も止めることはできません。もちろん、努力によって遅延することは可能だと思います。でも遅かれ早かれ誰もが年齢を重ねてゆくものです。であるならば、一日は24時間という中で、その還らぬ時の一瞬一瞬をどのように笑い、泣き、考え、自分の今できることに時間を刻んでいくかで、人生の重みは変わるというものです。

 重みのある人生を生きていたい。それは誰かに出会い、刺激を受け、どんな自分の中に化学反応をもたらすかと思って僕は生きてきました…

 でも、このコロナ禍の中で、会えていた人にも簡単には会えなくなり、新しい出会いなんて皆無だという人も多いのではないでしょうか?

 強制的に内省的な一年半を過ごしてきた人は、自分の中にある孤独と向き合ったり、今までの人間関係を見直したり、そんな時間になった人もいるかもしれませんね。

 インドでは、人生を4つに分けています。

 学生期、家住期、林住期、遊行期に分けています。

 学生期は字の雰囲気からわかるように、何かを学ぶ時期です。そして、家住期は一家の大黒柱として学んできたものを生かして仕事をする時期です。そして、林住期は古代インドでは、すべての財産を捨てて、林の中で修行や瞑想をして自分と向き合う時期とも言われています。遊行期はこの世に対する執着をなくして悟りを求めます。インドのバラモン教では、居住地すら捨てて風のように生きる時期とも言われています。

 まさにコロナは強制的に多くの人を林住期に向かわせました。

 では、次に待っているのは遊行期ですね。この字から「なるようになるさ」と浮遊感を僕は感じてしまいます。時代は占星術では急速に土の時代から風の時代へ移行したと言われています。そこに因縁めいたシンクロニシティを感じてしまいます。

 奇しくも今日は敬老の日です。老人には、この浮遊感がピッタリです。

 赤瀬川 原平さんは「老人力」という言葉を広めました。「物忘れがひどくなった」となると後ろ向きになりますよね。でも「忘却力」がついてきたと思うと前向きに聞こえませんか?
 何かを憶えることは努力で克服できます。でも忘れるという引き算は、努力では身につかないのです。過去の嫌なことをあれこれ考えて人は苦しみ、明日のことを心配して人は不安にもなります。でも、老人力の一つである「忘却力」は、そんなことも自動的に忘却の彼方へ連れ去ってくれるのです。
 日本のオリンピック、パラリンピックは終わりましたが、アスリートは努力して身体を鍛え、テクニックを磨きます。でも、ここぞという時にコーチから「力むな」「力を抜いて行け」と言われる。これって不思議ですよね。力をつけてプロと言われるようになったのに、本番では力を抜けと言われる。これは努力とは真逆の引き算です。これは積み重ねた力の足し算とは違い、老人力のもつ引き算が、ここぞという時には非努力の「テキトー力」が重要な力になってくれるのです。

 今はレトロブームだそうです。使い古された看板や、薄汚れた家具のワビサビが人気があります。古着ブームもそうです。いかにも「流行りです」よりも、着心地の良い質感が古着を好む人には安心感を与えるといいます。真新しい家具よりも、長年磨き上げられ、すり減った部分に愛着を感じられるのがお洒落だそうです。これもモノにかかわる老人力です。

 インディアンの長老の瞳も、若者のギラギラでもなく、負けたくないオロオロでもなく、すべてを経験した知恵と落ち着きが彼らの瞳には宿っていました。なぜだか、一緒に横にいるだけで穏やかなリラックスする時間が流れていました。

 僕もインディアンの長老のようになりたいと願いました。

 そのためには人生にはいろいろな意味で多くの経験が必要なのだとも思えます。

 さてコロナでの強制的な林住期を終え、ケセラセラ(なるようになるさ)という遊行期の幕開けが近づいている気配が僕にはしています。

 さぁ、風に吹かれてノンビリと歩きましょうか…

  

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