捨てることで、得ること…

      2019/04/25

 
 
 お盆の時期に、僕は断捨離をしました。そうです、物を捨てる作業です。
 
 CDや映像は、今の時代は、いつでもタブレットから取り出せます。服もそうです。「いつか着るだろう」で、数年も着なかった服は、永遠にクローゼットの中で思い出というホコリになります。
 掃除をしながらアルバムの写真をながめました。その一瞬、一瞬の思い出がよみがえります。これはさすがにパソコンに取り込んでいれば別ですが、かなり整理しましたが捨てられません。
 
 ただ自分が昔、凝って集めた風景の写真集は、懐かしさはありますがかなり捨てました。「あ、この景色きれい」のPhotographも、今の時代はインターネットで、似たような景色や、それ以上の風景ですら取り出せることが出来るからです。数年に一度、この一瞬の「キレイ!」のために書棚に場所を取ると、必要な本をスピーディーに探すことも出来なくなります。
 
 
 断捨離をして、気づいたことは、今の時代は物にあふれています。そして、情報にも…
 
 インスタグラムもfacebookもやっていない僕には、無縁ですが、一度ネットに流した写真は、現代は世界に永遠に共有されます。
 
 今の時代は、恋人とのツーショット写真もネット上に永遠に残ります。
 
 僕の時代にはなかった事ですが、今、付き合っている最愛の人の過去が、知りたい知りたくないに、かかわらずネット上に、永遠に残る時代です。
 
 カウンセリング中の20代の男性が、先月に別れた彼女が「もう他の男性とのラブラブのツーショット写真が、友人のLINEに入って来て…淋しい」と落ち込んでいました。
 
 
 「彼女が誰かと付き合ったらしい」と風のウワサで聞いていた、僕の時代とは違って、今の恋愛事情は、写真だけに「リアルだなぁ」と彼ら世代に同情しました。
 
 「知らぬが仏」という故事の一文があります。「夕鶴」や「鶴の恩返し」で語られるように、知らなければ幸せに生きていけることもあるのです。
 英語に「Ignorance is a bliss.」(知らぬは至福)との言葉がありますが、このような教えは昔からの智恵だったのかもしれません。
 
 
 入れ墨も、今の時代はアウトローな特殊な人達だけではなく、タトゥーもファッションとして普通になりつつあります。昔、付き合っている人の名前を腕に彫っていた人が、その恋人と別れた後に、整形外科を訪ねて「消して欲しい〜」と泣きつく人がいるんだなぁと、整形外科医が笑いながら話していました。
 
 日本では離婚率は3組に1組です。
 これは心理学という学問を持ち出すまでもなく「人は変化します!」
 
 僕の知人に、家族愛をアピールし、リアル充実感たっぷりな、家族写真をアップし、ホームページを作っていた人も、今は再婚して別の家庭を持っています。「あのアピールは?」と…何だかなぁと裏切られた複雑な気持ちにも当時はなりました。
 
 もちろん、人は変化するし、カップルにも、家族にも、それぞれに外からは見えない事情があります。僕は、別れたことをとやかく言いたいのではありません。外へのアピールは慎重にしないと、今の時代は、「楽しい」が後に「恥ずかしい」に変わる可能性も含んでいると言いたいのです。
 
 
 だから、僕は、その瞬間の想い出は、自分自身のアルバムにシッカリとインストールして置こうと思えるのです。
 
 インスタグラムやLINE、facebookでリア充満載の写真を観て、落ち込んだと言う人が、盆明けにカウンセリングルームの扉を多くノックします。
 
 僕は「外に一生懸命充実をアピールしていない人のほうが、本当は今が充実している人じゃないか…」と、僕の持論を相談者にお話しをすることがあります。
 
 俺たち家族は幸せだとアピールしている人は、内の幸せに不安があって、外に自分達の幸せを承認してもらえないと不安になる人々で、だから「外から見られる自分たち」が大切で、自分達の「この瞬間」を、逆に味わっていないのではないかと…
 
 もちろん、自分の感動を共有したいのだろうし、良い耳寄りな情報は教えたいのであろうとも思うのですが…
 
 僕は時代遅れの人間なのだと、自覚はしつつも、僕はキラキラした想い出は、外にアピールするより、内に大切にとどめて置くほうが、尊くて美しく思えてしまうのです。
 
 リアルな写真もステキですが、記憶の中で、人は想い出を美しく装飾できる能力も備わっています。実際の写真より、想い出の記憶のほうが、その瞬間の感動が写真に装飾され、とても鮮明で美しく感じたことがないですか?
 
 最近、テレビで見たのですが「緑内障の発見が遅れるのは、視野に欠けた場所があっても脳が、周囲のバランスを計算して全体像として視野を補うので、緑内障の人は、視野が欠けている事実を自覚できないので、病気の発見が遅れると…」これは、逆にいうとスゴイ能力です。
 
 話はそれましたが、僕もいつの間にか写真集の美しいphotoよりも、僕の中にある記憶の装飾のほうが美しく、とてもリアルなことに気づいてしまったようです。
 
 今回の僕のブログは双方向にオープンにしているブログなら、誰かを不快にさせたり、お叱りを受ける内容かもしれません。本当に御免なさい。でも、これも一つの角度を変えた考え方であり、一つの個人的な意見として受けとって下さい。
 
 じゃ、なぜ書いているのか。これは独り淋しく、お盆を過ごされた人への僕の応援歌です。
 
 僕のお盆はインスタ映えする事もない日常です(掃除、断捨離、ボーッと過ごす)が、そんな日々が最高に面白いと思って、僕は日々を生きています。
 
 そして、何よりも忘れないで欲しい!
 
 僕が過ごしたアリゾナ州のナバホ族の子供達は、日本のどこの子供達よりも貧しく、物に満たされてはいませんでした。そして、彼らはアメリカにいながら、ディズニーランドも知らないし、村から出たこともありません。そんな日々の中で彼らの口から「退屈だ」と言った言葉を聴いたことがなかったのです。
 
 
 僕の子供もふくめ(反省汗)物質に満たされた、日本の子供達が、物にあふれた部屋の中で「退屈だ!」と言う言葉を、僕自身、何度も聴いています。
 
 そうなんです。幸せは物資に満たされることでも、リゾートの旅に隠れているのでもないということに、僕たちは、そろそろ気づかなければと思います。
 
 何気ない頭上にある、インスタ映えを超える空の青さに、君は今気づいているのか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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