氷解
2019/04/21
260名の参加者でした。
今回もドラマがありました。
ある修了者の修了レポートを紹介しましょう。
「Yを見ていると自分の嫌な部分を見ているようで腹が立つ。」
私の前で「妹と二人の生活は気楽で良い」と平気で話す母。
上京して五年。今日も実家は懐かしむ所ではなく、やっぱりここにはもう私の居場所はないのだと再確認する空間となり、いつものように気を遣って回せなかった洗濯物と、また少しくたびれてしまった心を抱えて電車に乗り込む。
若くして親になった父と母は仕事に忙しい毎日だった。生後二ヶ月目から通っていた保育園での強い記憶は、友達がいなくなった教室で母の迎えを待ちながら先生の膝で絵本を読んでもらっていたこと。
小学一年生の冬、インフルエンザにかかった時も両親は仕事で休めず一人苦しみに耐えていたこと。台所で忙しくする母に、学校であった嫌なことを話した日。「疲れているのにこれ以上イライラさせないで」そう背中が語っているようで、もう悩みを相談するのは止めにしようと心に決めたこと。
いつしかそんな記憶ばかりが記憶に居座って、苦しみや辛さは一人で背負うもの、悩みを打ち明けるのは迷惑をかけるだけだから…と心に蓋をすることが得意になっていった。
毎朝寝起きの私たち姉妹に「洗濯物干してゴミ出して、食洗機回しといてね!それと...」と言い残し仕事へ向かう母。もし一つでもやり忘れていることがあったなら帰宅後の機嫌は悪く、長女の私が叱られたあの頃。
感情を表に出すことが苦手だった私は、高校生にもなると母の「行ってきます」の声を聞くまでは自分の部屋から出ず、母の「ただいま」を聞く前には布団に入る、そうやって背を向けて過ごすようになっていった。
社会人になり初めて実家を出ることになった時も寂しさはなかった。子どもの頃から家事に慣れていた私には、周囲の人が言う『親の有り難みが分かる』という言葉も上の空だったような気がする。次第に実家に帰る回数は減っていき、連絡を取ることすらマレになっていった。
誰にも何も言われず自由な時間が過ごせる、とても気楽で肩の荷が降りたような気分だった。次第に気楽さに甘えてしまい、他人とコミュニケーションを取ることすら面倒になり、気がつけば仕事以外では一人で家にいることが多くなっていった。しかし一方で、自分の存在は一体何なのだろうと虚しさが襲うようになり、考えれば考えるほど自分の存在の儚(はかな)さと脆(もろ)さに心が惑い涙が止まらなくなっていった…
そんな時に書店で見つけた本が、比田井和孝さんの『私が一番受けたいココロの授業』だった。中でもディズニーランドのお子様ランチの話に深く感動し、電車の中にも関わらず声を押し殺して泣いた。こんな奇麗な涙を流したのは何年ぶりだろう...。冷えきっていた心がじんわり温かくなるのを感じた。その日からこの本は、どこへ行くにも持ち歩く私のパイプル書となった。
それから数日後、妹から「凄く良い動画があるから観てみて」と突然YouTubeのURLが送られてきた。その動画を観た瞬間私は鳥肌が立つのを感じ、バイブル書の大好きなページを開いた。やっぱり!それは本の主人公、衛藤信之さんだ!
後の授業で分かったが、この偶然の重なりは私にとって必要なタイミングで起こったシンクロニシティだったのだと思う。
メンタルに通い始めて多くの気付きがあった。中でも音楽療法の授業は完全に潜在意識となっていた家族との記憶を引っ張りだされ、涙があふれて止まらなくなった。
若い頃の両親の面影。
忙しいながらも毎年夏には決まってプチ家族旅行に連れていってくれたこと。マラソンが苦手だった私に付きそい、休日は一緒に練習してくれたこと。
思い返せば、どんなに忙しくても学校の行事には両親そろって応援に駆けつけてくれたこと。何よりも、それが嬉しく私の自慢だったこと。講座が終わる頃には、私の心に長く居座っていた『寂しさ』という記憶が少しずつ腰を上げて「私ってこんなに愛されていたのだ」と幸せで満ちあふれていた。そして、あの頃よりは確実に小さくなった両親の背中が浮かび、今まだ元気でいてくれていること、親孝行をするチャンスが残されていることに感謝の気持ちでいっぱいになった。
愛や幸せは与えてもらって感じるものではなく、自分で気付き生み出すものなのだと、受け止め方を変えるだけで世界はこんなにも違って見えるのだと、初めて心から実感し、経験できた瞬間だった。
その頃から、母と私との関係も少しずつ変わっていくのを感じ始めていた。
ある日、実家に帰ると、母がいつものように妹との生活は気楽だという話を友達にしていた。今までなら、モヤモヤした気持ちを心にとめて黙っていたが『ここはアイ・メッセージだ』と思い、自分の心の思いを話してみた。まだまだ不器用で十分なアイ・メッセージではなかったし、私にとっては相当勇気のいることだったので口から出た言葉はほとんど覚えていないが、できるだけ穏やかな気持ちで「こういう話を聞くとやっぱり寂しいということ、私はお母さんが大好きだから」そんなことを私なりに伝えた。
この時は、母が私の話をどう受け止めたかは分からなかったが、後になって「Yにも言われたけど、勝手な思い込みが見え方を歪めてしまっているのかもしれない」という話を父にしていたことをあとで知った。
昔から「思っていることはハッキリ言い!」だとか「Yは何を考えているか全然分からない」と言われ続けていたので、私のアイ・メッセージは母を驚かせてしまったかもしれないし、もしかすると母を傷つけてしまったのではないかと気にしていたが、私が思っていたよりも、深く受け止めてくれていたことを知って、とても嬉しかった。
そして何より私が嬉しかったことは、母がメンタルに関心を持ち大阪校に通い始めたことだ。五十年という長い歴史の中で築き上げてきた母の価値観や性格はそう簡単には変わらないだろうと思い、私自身が変わることで歩み寄ろうと意を決していたので、始めは母の突然の決断に驚いていたし、私にとっては予想外の展開となった。それも、ただの私の思い込みでしかなかったのかもしれない。これまで連絡を取り合うのは三ヶ月に一度程という、お互い必要以上に干渉しない間柄であったが、今では毎週メンタルを受講した後に、感想を報告しあうのが習慣になっています。実家に帰る頻度も増え、母とも沢山の話をするようになったのです。
ある時、母がふと「Yが一年生の時インフルエンザにかかったこと覚えてる?」と話し始めた。 「あ~覚えてるよ。お母さんが仕事休めなかった時の…。」「あの日、帰るとYがすごく泣きながらね…」「そうそう」「近所のおばちゃん達に言わないでほしい。みんなが心配して来てくれると、しんどいのに外に出やなあかんくて辛いって。本当に可哀想なことしたなって、お母さん今でも覚えてる」「…。え、そんなこと言ってたん?覚えてない。」この時初めて、私が一人で我慢してきたと思っていた記憶は決してそうではなかったのだということを知った。
朝は七時過ぎに出勤する母。きっと時間の無い中、私が一人寝込んでいることを伝え様子を気にしてもらえるよう近所の方々に頭を下げてくれたのだろう。病気の子どもを一人置いて仕事に行かなければならないこと、世間の目、少しでも早く帰ってあげたい、きっと気がかりで仕事も集中できなかっただろう。辛かったのは私だけじゃなかったんだ。私が忘れてしまっていることも、記憶に鮮明に残っているほどに母も辛かったんだ。もしかしたら私以上に心を痛めていたのかも知れない。
そう思うと、これまで母に対して抱いていた過去の記憶への感情が申し訳なさでいっぱいになり胸が詰まった。あの時から二十年以上経っていたが、ただ辛かったとしか思えなかった経験がこんなに私の心を幸せで満たしてくれるなんて、想像もしていなかった。
『辛』に一を足すと『幸』になるってこういうことなのだな。私にとっての寂しさは母にとっても寂しくて、私が我慢してきた出来事の裏には私以上に我慢してくれた母がいたこと。それに気付けたことで、これまでの心の傷は全て母と共に乗り越えてきた日々の勲章へと変わっていった。お母さん、ありがとう。お母さんの娘で最高に幸せです。心からそう思えた。
『過去と他人は変えられないけれど、自分と未来は変えられる。』一歩踏み出しメンタルに通い始めたこと、ここから確実に私の見える世界は変わっていった。
私が変わることで驚くほど周りにも変化が訪れはじめた。生きていれば色んなことがある。嬉しいことも悲しいことも、楽しいことも辛いことも。でもそれが生きているということ、全て大切な私の人生なのだと今は愛おしく思うことができる。
神様から与えられた今という『present』。これからも沢山の人生の宿題が私の前に立ちはだかるのだろう。心折れそうになることも、諦めたくなることもあるかもしれない。でもそんな時、「この宿題は私に何を教え、何に気付かせようとしているのか。」そう向き合いながら乗り越えていこうと思う。『辛』を『幸』に変えるための『一』は私の心次第なのだから。
どう受け止め何に気付けるか。これからも私にしか歩めない道を私らしく、私なりの『幸せの足跡』でいっぱいにしていきたい。そして沢山の愛を生み出せる虹の戦士の一人となれるよう、ここで学んだ経験をいろんな形で伝えていきたい。ここに巡り合えたこと、今があること、先生方、家族、私に起こる出来事や出会い全てに感謝をしながら...。
今回はこの修了レポートを書いた、東京校のYさんと大阪校のお母さんも、東京校で修了式に参加していました。二人が姉妹のように笑顔で参加している姿に影ながら幸せをいただきました。
とても、幸せです。
次回は名古屋校の4月2日の修了式です!