ストレスをもってストレスを制す

      2019/04/21

 僕は両親の離婚などがあり、大阪から九州に転校し、祖母に育てられた。反抗期になり、祖母と言い合いになると決まって「この歳になって、孫の面倒まで見にゃいけんはめになって、普通の老後なら、のんびり隠居なのに。いつまでもあの世からお迎えは来んわね」と本気とも、冗談ともつかない顔でイタズラそうに笑った。僕は「当然や、俺がいる間は逝かせんから」
 それが、僕と祖母の休戦の合図だった。

 でも、これはまんざら嘘ではなかった。祖母は年齢のわりに同世代より若く、人生を最後まで元気で過ごした。


 僕自身も、日々、全国を移動し、教室で心理学を指導しているから、体調を崩さないで過ごしているのかもしれません。ストレスは時には、人の能力を覚醒させるというデータが数多くあります。


 北海道の旭山動物園は、赤字続きで閉鎖の危機でしたが「行動展示」という環境改善で、経営は黒字に転じました。今や上野動物園に並ぶ集客力をほこり、日本だけではなく世界からも注目を集めています。


 今までの動物園では「形態展示」といって動物の姿をただ見せる場所でした。でも、動物の美しさは形態ではなく、本能によってエサを探している姿であったり、危険から逃げるために身を避けようと、高いところによじ登る筋肉の動きだったりするのです。それが植物と違う、動物が動(く)物と言われる所以です。


 現在では、多くの動物園では形態展示から行動展示に移行しています。


 エサをただ与えるだけではなく、トラやライオンは、肉を木に吊るして飛びつく姿を見せたり、オラウータンは、エサを取りにくい場所に設置すると、細い枝を使って突き刺してみたり、象などは木の中にエサを隠すと、器用に長い鼻を使って、ほじくり出したりと、動物が一日中、エサを取るために全身全霊を使って行動している姿を「行動展示」では、入園者は見ることが出来ます。そして、動物たちも本能が目覚めストレスがなくなるそうです。ストレスを与えてストレスを無くす逆転の発想です。
 
 今までの動物園は、動物はただゴロゴロ寝ているだけでした。ですから、一日時間が余り過ぎて、動物たちは余計にストレスがかかっていたのです。

 でも、食べるための行動は動物たちにも活気を与えました。

 

 これは、家庭の子育てでも同じことが言えます。草食系の男子が現れ、家で、ただただ、ゴロゴロと時を過ごしている。もはや草食系を通り越して、植物と化した若者が増えています。


 親がエサを与えすぎて「働かなくても食える時代」の申し子です。
 子どもが朝起きないと言うお母さんがいます。でも、往々にして親が学校に遅れる事にたまりかねて起こして、お母さんが目覚まし時計の代わりをしています。


 ニートの子どもを持つ親に、僕はムリだろうと内心思いながら「30過ぎて働かないとなると、自然の動物界では死をむかえます。だから、お母さん、子どもを家から追い出して下さい」と言うと「そんなのムリです。子どもが外の世界で何かあったらどうするのですか?」僕が追い打ちをかけて「それは子どもの運命ですから。じゃ、このまま子どもを飼い殺しますか?」とショック療法のつもりで、残酷な言葉をあえて伝えてみたりする。


 そうすると「先生から言っていただけますか?厳しく!」と、言葉の意味は厳しくなんだけれど、結果はまた親が、誰かに(この場合、僕に)依存しようとする。そうやって、この親は、いつも戦いを避けてきたのだろうと、僕には、その家庭の背景が見えてしまう。

 

 ここで大切なことは、子どもに怒ったり、怒鳴ったすることが戦いの意味じゃない。ここを間違ってはいけないのです。


 ただ、親は静かに伝える…
 人は誰かに、「君が生まれてくれてありがとう!」と言われて社会の一員になること。キラキラした汗をかいて、一日誰かのお役にたって生きて行く、それこそが、あたなが社会の一員として、自分を「誇らしい!」と思える第一歩なのだ。その一歩が社会で、君の居場所を作る方法なのだよと、言葉と行動で伝える。それは、親が汗をかいて黙々と働き、社会に愚痴を言わないで、腐らないで日々を笑って過ごすこと。

 ただ黙々と働いていても、家庭で不満をもらし、社会に敵対していては逆効果になります。


 確かに、子どもが職場で叱られて、落ち込んでいたりすると、親として悲しい気持ちになるだろうし、感情的に叱った人に「一言、物申す!」といった気分になるかもしれません。


 「そんなにヒドイ上司がいる会社なの?? 辞めなさい。あなたは一生懸命にやっているのにね、理不尽よ!」
 これを言えば、社会の現実を、逆に歪んで、子どもに伝えることになります。残念ながら、この世は理不尽です。

 

 一生懸命に指示通りやったのに、上司の気分しだいで叱られることがあります。全力で準備していた企画を、見てもいない上層部に、企画変更させられることもあるでしょう。自分のミスでもないことを会社を代表して、お得意さんに罵詈雑言を浴びせられても、頭を下げなければならないシーンも出てきます。


 その理不尽さが、現実社会の側面でもあるのです。


 だから親はアイ・メッセージで伝えるべきなのです。
 「お母さんは、お前の存在が、誰かに『お前がいたから助かった!』と、いつかは言われる人に育ててきたつもりだよ。あなたなら、今の苦しさに耐える力がある。お母さんは、そう信じているよ。お前なら大丈夫さ」そんな思いで背中を押す。それが、親という存在です。


 講座でも僕は伝えていますが、
 「親」という字は「木の上に立って、見てる」と書きます。降りて来てはダメなのです。静かに見守っていられる、それ自体が、親がストレスに耐える姿勢を子どもにモデルとして示すことになるのです。

 これは、決して無関心とは似て非なるもので、まったく違います。
 見守るのは、きっと乗り越えられると信じているから手を出さないのです。信じられない人が、子どもの野生が目覚める前に、お節介にも先に手を出してしまう。もちろん、相手が成長し、野生が目覚めるには時間はかかりますから、手を出したくなる気持ちもわかるのですが…


 ただ、「人」という動物も、食えないとなると、苦しくても、誰かに頭を下げて汗をかいて、社会で生きていかないとならないのです。それを、たまりかねて、親が目の前に安定した部屋と、働かなくても食べられる状態を提供し続けると、子どもの本能は低下し、野生は植物に変わって「ニート」と化す。親も誰かに家庭の苦しみを語り、誰かに何とかしてもらおうと、また、子どもに依存的な逃げるモデルを見せてしまう。


 「働く」という字は「人」のために「動く」と書くのです。親も子どもも、自分が傷つきたくないからと、ストレスから逃げているから、社会というジャングルの中で、働けない子ども作りだしてしまう。

 一時的な逃避やひと時の休息は許しても、やがては子どもを送り出そう、社会のジャングルへ


 動物界で、親が子どもを巣から追い出す子離れの季節があるように。本能の目覚める世界へ


 そう、お前なら大丈夫さ!
 行き(生き)なさい!


 社会で必要とされる為の、君の居場所へ












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