父の日考。
2019/04/21
とても怖い父でした。男のクールさと、優しさが同居した人。
子どもたちを連れて、大分の田舎に帰った時に、父が孫である息子にレーシング・カーを買ってくれたことがあった。ところが、自宅に車で帰ったらモーターが箱の中には入ってなかった。
「明日、街に出た時に、おもちゃ屋にかならず寄るからなぁ。我慢しような」との、僕の説得に、息子はスグに納得してくれました。
でも、気がつけば父と車がなかった。1時間くらいしたら、父が「オモチャのモーターが玄関に落ちとったぞ…」と孫に手渡していた。
僕が「街に行ったの?」と尋ねても「街になんか、行くわけがないだろ!」とぶっきらぼうに答えるだけ。そう、親父はそんな人だった。
包装紙を破って、この僕が開けたのだから、玄関に落ちているわけがない。でも、それを問いただし「行ってくれたんだろ?」とたずねても同じような返事が、親父からは突き返されるだけ。 それが、分かっているので「そう⁈」とだけ言って、僕もそれ以上にはたずねない。
それが、僕たちの関係。
長年つちかってきた親子の間合いかもしれない。「感謝」や「愛情」の有無を、確認し合うことが、何よりも苦手な人なのが親父だった。
まさに後ろ姿の人。そう、アピールはないけど、行動で本音がわかる。
僕が盲腸で苦しんでいる時に、親父は車で、病院を探してくれた。インターホン越しに病院が冷たく応じたことに腹をたてた親父は、シャッター越しに怒鳴っていた。
運よく病院側の人は、中から出てこなかったから良かったものの、あの勢いでは、病院の関係者を殴っていたかもしれない。そうなったら、僕の痛みどころではない。
親父は喧嘩早く、血の気の多い人。
次の病院を探すために車に乗り込み「あんな病院はヤブ医者や!」と怒りながら運転していた横顔は、いつもの迷惑な人よりも、父親の愛情を感じていた。
やっと、病院が見つかり、痛みの原因が盲腸だとわかり、痛み止めの点滴をしながら、ベッドで僕が落ち着いた時「大丈夫や、これくらいで死ねへん!」と言いながら、優しく布団の上から、親父の手がトントンと叩いてくれた。そう「これくらいで死んでたまるか」と、親父は自分の不安を振り切るように、自分に言い聞かせていた。
僕は、病院にいる不安より、短気で飽き性の父親が、布団の上から優しくトントンしながら横にいることが、とても安らいで、それが終わらないうちに「眠らなきゃいけない」と必死だった。それが、とても長い時間に思えた…気がついたら僕は眠っていた、ありがたいことに…トントンを感じながら。
その当時「お姉さん」と呼んでいた、同居していた父の恋人が、病院に洗濯物を取りに来た時の話題すら憶えている。
「この間ね、お父さんがね、夕方、電気を点けることも忘れて、台所の暗い中で、お鍋やら、やかんのネジを一生懸命に締めていたの。それを見たら本当に、お父さん可愛いと思っちゃった」と、小学生の僕にノロケられたこともあった。
大人になった今なら、お姉さんの気持ちはわかるような気がする。
ぶっきらぼうな親父が、夢中になって電気も点けないで、そのお姉さんが料理をしている、調理器具を一生懸命に修理しているのですから、親父の少年のような単純さが、可愛く見えたのでしょう。
ただ少年のような父のその単純さが、裏目に出ると、母に暴力をふるったり、車の運転をしていても、喧嘩早く、短気な父は、家族そっちのけで路上で喧嘩を始める。
愛人ができると家には帰らず、愛人と過ごすことが多くなり、外車などに乗って羽振りはいいのに、お金を家に入れない人。
いや僕の想像だと「お金を入れなくても家族は何とかなるさぁ」と夢の中に住んでいた人、少年のように愛に夢中になっていたのかもしれません。
そんな少年のような親父が好きで、生活を始めた女性たちの何人かは、自分以外に女性がいることを知ってしまうと、自暴自棄になり、家事などを放棄する人もあった。
その女性の一人に「これが家にある最後のお金だから」と、お札をにぎらされ、僕や妹、その女性(ママ母)の朝食のために、寒い季節に、パンを買いに行かされる。そのたびに、友人たちの朝食のやさしい風景を想像し「なんで親父は、ああなのだろう」と、何度も親父を恨めしく思ったこともあった。
でも、心底、父親のことをキライにはなれなかった。
それは、病院に向かって怒鳴っているシーンだったり、一度、キャッチボールをやってくれたシーンだったり。
その頃の僕は、小学校の低学年で、初めてグローブをつけた日。僕の投げ方が上手くないために、ボールがそれる。そのたびに、親父が後ろや、前に取りに行くのが、子どもなりに気が引けて、申し訳ない思いで、僕から「もう、いいよ。楽しかった」と言って終わらせた。そのせいで大人になってもキャッチボールだけは僕は得意だ(笑)
そう、もう二度と親父に、迷惑かけないようにと練習したからだと思う。
そうやって、ツラいシーンよりも、そんな数少ない親父の優しい思い出が、最終的に、親父をキライにならなかった理由なのかもしれない。
人によって違うのだろうけど、やはり思い出は美しいものだと思います。
カウンセリングをしていると「子どもに関わりたいと思っていても、仕事から帰ったら子ども達は眠っていますから…」と、ふれあえない理由だけを述べられる親たちに出会います。
帰宅したとき、たとえ子どもたちは眠っていても、子供部屋に入って、子どもに布団をかけるでもいいし、トントンしてあげるだけでもいいのです。それだけで、不思議と愛情は伝わるものだと僕は信じています。
話は変わりますが、未だに父は、我が家に電話をしてくる時に、妻が電話に出ると「坊主は元気でやっとるか?」「坊主は今いるのか?」とたずねます。妻も、それが可笑しいようで「坊主さん」と、僕に受話器を手渡します。
僕は、そんな昭和の親父が大好きで、僕も自分の子供たちが、どんなに大きくなって、手の届かない場所に行っても「おい!坊主、元気か?」娘には「おチビさんは、生きてるのか?」と言ってやろうと思っているのです。「もう、私はおチビではないから」と言ったら「何言っているんだ。お前は、俺からしたら永遠におチビなんだよ」って、言ってやろうと…昭和の僕の親父を受けついで…
父の日でもない日常に、僕は父に電話をする。
突然の僕からの電話に、父は当初は戸惑っていた。
「元気ですか?父さん」「元気だ!なんや!」「いや、これと言った用はなくて、もう、父さんしかいないから。血のつながっている年上は。長生きしてもらわないと困るから…」「お前が心配せんでも、生きとる!で、お前はどうなんだ」「あ、おかげさまで、父さんの子だから身体はタフで」「そうか。お前、こんなことで電話するな。アホか!」「その元気そうな声を聴けたから安心したよ。身体に気をつけて、じゃぁ」
でも、今はいい感じの電話のやり取りが多い。
「一分間の親孝行」です。そして、電話を切ったあとに、僕も癒されている。
そう、それは、いつか親父がこの世を去った時に、自分自身がやれる範囲で親父と関わった、あれ以上でも、あれ以下でもなかった。たとえ「相手との過去がどうであれ、自分は自分らしく関わった」という自己証明が僕は欲しいのだと思っています。
それが自分の生きざまだから。
誰かの死には、完全な満足はありません。かならず「もっと、こうしてやれば良かった」と後悔はつきものです。でも、最低限、自分の「今、ここ」で、ムリをし過ぎない程度には、やれることは、今やれた。その瞬間のベストの選択は、きっと、自分の人生を支える、背骨になるのだと思っています。
情けは人の為ならず 。
あなたが今、親にしている態度は、あなたの後ろ姿を見ている誰かにとって、未来、あなた自身に、どう接するかを学んでいます。
あの頃は、おびえていたが、今は自分が強くなったから、その誰かに偉そうにするのか、真に強くなったからこそ、誰かを敬って接するのか? を…そこに、人間の真なる強さが問われるのです。
人生を導いてくれた、恩人にその後、どう接するかで、その人の本当の真なる姿が見え隠れします。
だから、僕は昔と違って、父には敬語を使っています。
「お父さん、お元気ですか?」そして、万感の思いを込めて「お元気で…」と電話を切ります。
真なる男の強さを、子どもたちにも教えたくて…後ろ姿で…
僕も昭和の親父を受け継ぎたいから。