年齢という枠組みを越えて…
2019/04/21
たくさんの笑顔や、心こもった思いをいただきました。ありがとう
一年に一度巡ってくる誕生日は、新しく心を引き締めるキッカケになりますが、ある時期から年齢を重ねても、基本的には自分自身は、何も変わらないような気がして…
そこそこ生きてくると、生き慣れから、その年齢に合わせた、立ち居振る舞いが出来るようになります。
でも、基本的な性格や考えかたは、大人になった頃からは、自分自身では、何も変わっていないような気がして…
そして、僕は、最近は年齢に対する違和感が、さらに強く感じるようになっています。
「すごく若く見える~」の言葉も、まずは年齢ありきであり、その年齢というカテゴリーに、自分自身が強引に押し込められ「自分の知っている自分」は無視され、年齢というモノサシの基準で測られ押しつけられようでイヤなのです。
「俺は俺で、年齢という基準が、先にあるわけではないだろう!」と…心の中で、かすかな抵抗感を感じながら、外では笑っています。…これも年齢らしく振る舞う哀しいサガなのです。
知人の年輩のご夫婦が「日本のスキー場はイヤだ!」と言われ、スキー場にあるホテルを、早々とキャンセルされ帰って来られたことがありました。
彼らは長年アメリカに住んでおられ、アメリカでは、年輩のご夫婦が、思い思いに楽しくスキーを楽しんでいる光景を見て感激し、自分たちもマネをしたいと思って、遅れ咲きながらスキーを始めたそうです。
アメリカやヨーロッパで、スキーを楽しんでいて、年齢をたずねられることはない。ところが、日本のゲレンデでは、レストランで休憩していると「お幾つですか?」と、必ずたずねられるという。
それは、日本のゲレンデに似つかわしくない、スキーヤーに対する違和感であり、自分たちの「枠」には存在しないスキーヤーに、注がれる好奇の目なのだと彼らは語った。だから、年齢を質問をされるたびに、スキー場で、気後れを感じたのだと言う。
僕自身、年齢を重ねることは、とてもステキなことだと思っている。
でも、先の年輩のご夫婦が言われたように、日本特有のカテゴライズされてしまう、無意識の枠組みには、いささか抵抗を感じています。
年齢の「こうあるべき姿」「普通はこうだろう」という尺度が先にあって、それぞれ、色とりどりにある個性は「普通」に押し込められてゆく。
それは本人自身にも、マイナスの暗示として働き、無意識に蓄積され、そのワクに閉じ込められ、本当にそれらしく「老いてゆく」
でも、今までの人生をふり返ってみると、いつの時代でも、僕は年齢に反逆していたようです。
ですから、若い頃から、年上の知人や仲間が多かった。
若い頃から早熟だった僕は「若いのに凄いね」「その若さで」と、プラスに言われることもありましたが、逆に、年配者と討論して、相手が言葉に窮すると「若いからだよ!」と、全然、論理的でない結論で、一方的に抑えられ、討論が終わったこともありました。
その頃から、「年齢が、なんなんだ!」と思っていました。
僕の好きなネイティブ系の部族の話。
白人は不思議な病気にかかっている。「一日」を柔らかいヤシの実を切り刻むように、一日を細かく切り刻む。刻まれた時間には、名前が付いている。秒、分、時と、秒は分よりも短く、分は時より短い。すべてが集まって時間になる。分が六十と、それよりたくさんの秒が集まって一時間になる。
やさしい、今そこにある時を見ることをせずに、白人は、丸い機械を皮で手首に付けて、大人から子どもまで、そこに時間が住んでいると思っている。
そして、街のあちこちにある、もっと大きな丸い機械が、大きなうなり声でいっせいに街じゅうに叫び声をあげると、白人は「ああ、なんということだ、もう一時間が過ぎてしまった!」そして、たいていは大きな悩みでも抱えた人のような、悲しそうな顔をする。
でも、その白人の横には、たっぷりの時間が横たわっていて、また、新しい一時間が始まっているのに…
さらに、不幸なのは、今の時間の中で、白人は、ゆっくりと横たわることも、お昼寝することもせずに「時間がない!」「時間がない!」と、いつも、叫んでいる。
友と語らう時も、誰かと愛し合っている時にも、日向で子どもと遊んでいる時にも、手首にとめた丸い機械を見て、白人は「ああ、しまった! 俺には時間がない。こんなヒマなどないのだ」と顔色を青白くする。だから、彼らの顔はいつも白色なのだ。
白人の彼らに「なぜ、そんなに急いでいるのか?」とたずねると「働いて、将来ゆっくりする時間を作るためだ」と彼らは答えた。
これは一種の病気だと私は思う。
時間は逃げも、隠れもせずに「今、ここに」ゆっくりと横たわっているのに。未来に、横たわる時間を得るために「今の時間に、横たわってなどいられない」と白人は言う。
どの白人も時間の恐怖に、とり憑かれている。
彼らは自分が、最初に日の光を見た日から、どれだけ、昼と夜が過ぎ去ったかを、極めて正確に知っている。
そう、そのことは白人たちには、とても大切なことなのだ。だから、その一定の昼と夜が過ぎ去るごとに、ご馳走を食べて、花を贈ってお祝いをする。その一定の日を誕生日と呼ぶ
白人の世界でよく私は「何歳か?」と、たずねられた。そのたびに、私は笑って「知りません」と答えた。そんな私を、白人は恥ずべきものだと考える。彼らの心は、よくわかった。「自分の年くらいは、知っていなくちゃいけない」と彼らはよく言っていた。
私は黙り、そして考えた……知らないほうが、ずっといい。
何歳かと言うことは、つまり、幾たび夜と昼に出会ったかということである。だが、この計算という病には、大変な害がある。なぜなら、たいていの人間の一生は、幾たびの昼と夜に出会えるかがわかっている。
だからそうなると、誰もがきちんと計算を合わせてみて、もしも、たくさんの昼と夜に出会ったとすると、その人は言う「じゃあ、私は間もなく、死ななければならない。死ぬに違いない…」
すると、もう、どんな喜びも、若さも、愛する力も消えうせ、心はしおれ、輝かなくなり、彼は間もなく本当に死んでしまうだろう。
おお、愛する部族の兄弟たちよ。私たちは幸せだ。まだ、一度も時間に不平を言ったことはなく「時」が運んでくれるままに、時を愛してきた。時間を折りたたもうとも、分解してバラバラにしようとしたこともない。
また、白人のように、時間が苦しみになったことも、悩みになったこともない。
私たちの部族の中に時間がないという者がいたら、前に出るがよい。私たちは誰でもが、たくさんの時間を持っている。誰にも誰かを愛する時間があり、カヌーで川を下り、水と語り合う時間や、日向ぼっこしながら昼寝する時間を…今、我々は、じゅうぶん持っている。
私たちは知っている。私たちが一生の終わりの時がくるまでには、まだ、まだ、じゅうぶんに時間があることを。そしてそのとき、私たちは日が昇った数と、月が昇った数を、たとえ知らなくてもよい。大いなる心は、その意思のままに、私たちを呼び寄せてくださるからだ。だから、「今」と、しっかり楽しめば良いのだ。
部族の諸君、私たちは、哀れな白人を、狂気の病から救ってやらねばならない。時間を取り戻してやらねばならない。私たちは、白人の小さな丸い時間の機械を打ちこわし、彼らに教えてやらねばならない。
日の出から日の入りまで、ひとりの人間には使いきれないほどたくさんの時間があることを。
~「パパラギ」より抜粋 ~
だから、僕も人生のタイムテーブルは自分で決めよう。「あるべき姿」を無視して、「枠」を飛び越えて、永遠に心の炎を燃やし続けよう!
自分で年齢は決める!
自分は自分のオリジナルな人生を生きる ‼