なにが正しく、なにが間違い?
2019/04/21
二つのセラピーに共通している考えに「今、ここ」に「生きる」があります。
昔も越後で大きな地震がありました。
江戸時代の禅僧である良寛さんが、その地震で被災された友人に「災難から逃れる方法を教えましょう」と文を送ったそうです。
すでに地震の被害に遭われた人にです。
もう、手遅れです。それでも、良寛は手紙を出したのです。
そこには「災難にあう時には、災難にあうのがよい。そして、死ぬ時には、死ぬのがよい」と言うのです。
不思議な手紙ですね。
僕たちは何とか災難から逃れたいと思います。だから、将来の災難を恐れてペットボトルの水を買い占めたり、間違った情報をチェーンメールで流し無自覚にも、自分がその加害者になったメンバーが僕の周囲にも、たくさんいました。
今も、毎日流されるテレビの情報に目と耳は釘付けにされて恐怖と不安の「今、ここ」を過ごしている人もいます。
良寛が言いたかったのは、そのことなのです。
「今、ここ」に何を選択するかは自由なのです。
今日を恐怖にとらわれるのか、今日の一日をしっかり感謝して生きるかは自由なのです。
僕の知人で18年前に地震を恐れて神戸市内に引っ越して、二年後に阪神淡路大震災の被災者になった人がいます。
その被災された知人の不幸は、地震に被災したことです。
でも、良寛の考える不幸は、その知人が地震を神戸で経験する前から、頭の中で地震の恐怖を感じていたことなのです。
地震を避けるために、あれこれ考えて地震の二年前に神戸に引っ越したのですから、彼はその神戸に住居を移したよりも、ずーっと前から地震の恐怖にみまわれていたのです。
それが、なによりも彼の災難だと••••
「過去のトラウマ(悲しい過去)があるから、今も笑えない」という人も同じで、過去のトラウマを「今、ここ」の頭に連れてきているのです。
赤面恐怖の人は「赤面から逃れよう」「顔が赤くならないようにしなくては」と努力します。皮肉なコトに、忘れようとすれば、よけいに意識してしまうものなのです。
以前に、赤面の人のために、100人のクラスの前で「100人の全員が、あなたが『赤くなっている‼』と気づくように努力して顔を赤くして!」と言うと、その赤面恐怖の本人は顔が赤くなることが難しかった。いや、不可能だったのです。
心理学を勉強していると、心の不思議がわかります。「嫌だなぁーと思って逃げれば、嫌なコトがつきまとい、意識しすぎたことは、うまくいかない」
だから、人前で緊張する人は「緊張しないように」と思いすぎると緊張してしまうものなのです。あがり症や睡眠障害も、不潔恐怖も、視線恐怖も、心理パニックも同じです。
テレビを見て恐怖から、うまく逃げようと思えば「逃げられなかったら••••」と不安になる人が、カウンセリングの現場では、この時期にたくさん現れます。
テレビを見ていて「逃げ遅れた人と、助かった人は“ここが違う”」と言われると、なんだか僕は複雑な気持ちになるのです。
良寛の言うように「誰もが、いつか死ぬのです」今日、目に美しい、桜の花びらのように••••。早く散った花びらは間違ったのですか••••
逃げ方が悪かったのか••••
海のそばに家を建てたのが悪かったのか••••
危機意識が低かったのか••••
多分、僕も被災で死ねば「見習ってはいけない側」になるのだろうと••••
僕は今回の地震を名古屋のホテルで感じて、揺れている瞬間もボーッと外を眺めていたことをここに告白します。
そして、さらに「そんな大きな津波は、こないだろう」と心の中で思っていたことも••••
テレビの偉いコメンテーターのかたは「大きな津波が来るから逃げろ!!お願いだから早く逃げてください!」と声がかれるほどに大声で泣き叫びましたか。あの地震の瞬間に••••
誰もが不意だったのでは、ないでしょうか?
「もっと上に家を建てていたら」「 早く避難してれば」「忘れ物を取りに家に帰らなければ」の「たられば」が飛び交うたびに••••
どこにいても、人は望むと望まなくとも災難に遭う、そして、いつかは誰もが間違いなく死ぬと言った良寛の言葉が優しく響く•••••
「災難に遭う時には、災難に遭うが良き候、死ぬる時には、死ぬるが良き候、此れがこれ、災難から逃れる妙法にて候」と言った良寛が、なぜだか、今日は優しく心に響く••••
「散る桜 残る桜も 散る桜」と言って世を去った良寛さん、「聴いてもいいですか?」
死者は誰もみな悪くないですよね。
あなたが生きていれば、どう言われたのでしょうね•••••その良寛さんへの僕の質問も「たられば」ですね ^^;
だから、僕は今日の「今、ここ」を信じて、今日の一日と今日の戻らない出会いを楽しみますね
心理カウンセラーを目指したい方へ、衛藤信之先生が直接教えてくれます。