逃げないで…
2019/04/21
インディアンはこの世界を「愛を学ぶ学校だ!」という。
やりにくい人と、うまく関係をたもち、仲良く生きるかを学ぶところだと…そして、いつか我々は母なる大地に帰るのだと。
この世界はすべてが素粒子から出来ています。車もビルディングもペンもスマホも形を変えた素粒子なのです。僕たち人間も素粒子の集まりです。
現代科学では、人間にだけ特別な元素はなく、宇宙のどこにでも存在する元素の一部で人間は作られていることが分かっています。決して、人間だけが特別な存在ではないのです。
今、私たちが見ているすべては、形を変えた素粒子の集まりです。それらが、ゆらゆら揺らぎながら、形を変えて今、目の前に「それ」として存在しているのです。
たとえ固い金属という物質でも、高度な電子顕微鏡で見れば、たくさんの素粒子が集まって揺れていることが分かっています。身体の耳も、目も、手の指までも、同じ素粒子が細胞になり、それぞれの形を作っています。
僕らの周囲を見わたせば、素粒子の波が揺れている世界なのです。それを見ている眼球も素粒子です。聞いている耳も素粒子です。音も空気の振動です。その空気自体も素粒子です。それに共鳴している鼓膜も素粒子からできています。それを感じ取る大脳も素粒子で出来ています。
雨は降り水になり、それが、空に昇って雲になります。雨である水も、水素と酸素からできています。その水素と酸素も同じ素粒子からできています。
地球🌏は素粒子の交響曲です。地球自体が壮大な素粒子の集まりです。いや宇宙すべてもそうです。
昔、お釈迦さんはそれを知って、この世界はウエーブの世界で、増えることも減ることもない。道にある水たまりも、蒸発して雲になり、また、雨として天から落ちてきます。増減不滅なのです。
汚いも、キレイもない。そうウンコ💩も、お花も🌸素粒子で見ると同じなのです。貧乏もお金持ちも、素粒子が形を変えた「モノ」が多いか、少ないかだけなのです。いや空気も素粒子だから、貧乏人もたくさんの「空」という形を持っているのです。命ある身体も「死」という変化で、水や土や空気に散って大地に降り注ぎます。
僕がインディアンの地で住んでいる時に、長老に「淋しい時には、靴を脱ぎ、足で大地と会話をしなさい。たくさんの強い戦士や、優しい知恵者の思いが、お前を導くから…」と言われ、教えられたように「母なる大地」に愛おしく指や足の裏で触れ、安心したことがありました。それを告げると「大地から離れると、人は心の病気になる」と教えてくれました。現代は大地と日頃はふれ合えません。
僕の経験からも地震や津波に見舞われた子供たちの絵画は、アースカラーの茶色をふんだんに使っていました。幼い頃、両親が不仲になり離婚でゴタゴタしていた時期に、僕はよく砂漠の夢(渇き、不毛、砂の不安定感)を見ていました。ユング心理から言っても、僕は家庭(大地)に渇きを感じていたのでしょう。心理学を学んで、僕の心が、その頃に安定を渇望していたことがよく分かります。
いつか、僕たちの肉体は約束の時が来ると、素粒子に変えられて大地に帰ります。その時に僕は「風になりたい」と願っています。今の僕の身体は、その場所に行きたくても、スグには行けません。そして、同時に、別々の場所に行くことも不可能です。でも、素粒子には、それが可能なのです。時間と場所の制約から素粒子は解放されるのです。これは「量子もつれ」と言って量子力学の常識です。これを説明すると膨大な説明になりますから今回は遠慮します。
生きる時間は学びなのでしょう。
いや、制約があると言うことでは牢獄なのかもしれません。だから、仏教では人生を修行と説き、キリスト教では生きること、それは罪人として学びの時間だと言うのです。そして、学んだ人だけが、涅槃や天国に行ける許可が出るそうです。
なので、生きるのが辛く、苦しいことがあるのも当然なことなのかもしれません。
僕は「辛くて死にたい」と訴える人に、「死ぬのは自由だけど、修行放棄、牢獄を許可なく脱走すると、もっと、たいへんな環境に、もっと人間関係が大変な場所に送らされそうな気がするなぁ」と話すことがあります。
いや、僕は冗談ではなく勝手に、そう信じています。だから、生きていて、冬のような淋しい時代や、胸をかきむしるような出来事にも出会うかもしれません。いや、今までも出会って来ました。これからもそんな事が何度でもあるのでしょう。だから、しっかりと生きて学びを終わらせようと…
だから、早く亡くなる子供たちは、優しい神さまが「もういいよ」と呼んでくれたのです。呼ばれないのに行く自殺は完全に牢獄からの脱走です。しっかり学びは終わらせたいです。
ですから、職場で嫌いなアイツも、あの人も、もともとは粒子の仲間です。いつかは大地で混ざる仲間です。頭で作られる「許せない💢」という感情も、その感情を作り出す脳自体も、粒子なのですから、それも「空」なのかもしれません。
心が「空」ならば、心のキャンパスに、どんな色をつけるのかも僕たちの自由なのです。それが学びなのでしょうね。
これが「色即是空」なのかなぁ〜。ね、お釈迦さん!