裏切られた人のほうが…

      2019/04/21

 あるスポーツコーチが落ち込んでいました。

 育てた選手が、他のチームに移籍したと言うのです。
 そのコーチが思い出すことは、自信のない彼を激励し、指導し、飯を食わせ、試合のチャンスを与え、いつも笑顔で援助した日々だという。

 彼は深く嘆いていました。

 「人はなぜ、裏切るのか?」

 経営者やリーダーで、誰かに裏切られて傷ついたことの経験のない人はいないかもしれません。

 どんな武将も、英雄も、誰かに裏切られ、多かれ少なかれ、傷ついた傷跡が「人望」ある人には勲章のように後で輝くものです。

 いや、小さな部下の誤魔化しまでも、裏切りとしてカウントするならば、それを指摘するか、観て見ぬフリをするかは別にして、人の上に立つ者は、その裏切りに遭遇することは日常茶飯事かもしれません。

 「いや、それがリーダーの仕事だ!」と言った腹の座った経営者もおられました。

 人は、育ててもらい、期待され、チャンスをもらい、フォローされ続けた大切な存在を裏切ってしまう、イエス・キリストを裏切った、イスカリオテのユダのような悲しい役割しかできない人は、世の中には掃いて捨てるほど存在しています。

 ですから、人は人を裏切る存在なのかもしれません。

 それは誤解です。もっと正確にハッキリ言えってしまえば、実力のない人が、人を裏切るのです。力がないから、より多くの人を裏切るという結果になってしまうのです。

 その人の実力のなさ、弱い心が誰かを裏切ることでしか、自分の存在を誇示することができないのです。

 誰かの力で世に出、相手の力を利用して成功をおさめ、その相手の存在を自分の人生の中から消し去りたいと思う心が、自分の今ある成功の世界にだけ逃げ込み、恩を忘れ、育てた存在を無視しようとする逃避の心になるのです。

 人はそれを「裏切り!」と呼びます。

 その不遜な行為は、相手への羨望と嫉妬の心理が、その心の奥底には隠れています。

 力がない存在だから、その人と離れておくことで、自らの心にある羨望や嫉妬心から逃れていたいのです。

 それを先の経営者のように「まぁ人間は、そういう弱い存在なのだからしょうがない。上に立つ者は、背信に見舞われ、裏切りに遭遇する日々が業務です」と、言ってのける豪胆な人になるか、
「もう、誰も人なんか信じない。人を育てない、任せない」と虚無主義におちいるかは、上に立つ者の器(人望力)が試される瞬間かもしれません。

 どちらにしても、人を裏切る側になるか、裏切られる側になるかで問われるなら、嫉妬と羨望をされた「裏切られた側」のほうが、ずーっと快晴の人生が送れるのは明白です。

 あなたは信じてきた人の裏切りに「絶対に許せない!」と徹底的に攻撃するのか、「信じてきたアイツがやったのなら、人生の中で余程のことがあったのだろう」と許容する人になるかは、その人の真なる人望力が問われることになります。

 あなたはどちらですか?

 いやいや、そんな誰かに裏切られたら…と考えるよりも、僕自身が、知らず知らずのうちに、無自覚にも、自分よりも優れた能力のある人を裏切ってはいないか?
 誰かへの恩を忘れてはいないか?を、自己チェックすることのほうが、それこそ大切な自己成長につながりますね。

 やはり人の生き方をあれこれ言うよりも、自分の生き方をしっかりと素敵にデザインするほうが、はるかに大切なのですよ。
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