好きだな「禅」の精神!
2019/04/21
釈尊が悟りをひらいた瞬間に感じた「心の解放」や「気づき」とは… 不安や苦しみ、悲しみ、嫉妬、恐怖、勝つも、負けるもない心の世界。
そう、自分の正しさで、相手を言葉で裁いて、攻撃し、正しくない側に立つこともある。
恋人同士、永遠の愛だと信じて、愛しあった二人が、やがて一番憎しみ合うことはよくある事例。
親から「愛されなかった」からと、愛を語りながらも「親を恨んでいる!」と言い切って、愛のない言動をくり返す人になることも、よくある事実…もちろん、こう書いていることも「傷ついた!」と言っている、誰かを僕が、傷つけているのも現実なのでしょう…
愛を伝えてきた数多くの宗教ですら、歴史の中で、どれだけの多くの血を流してきたのだろう。
だから、多くの悟りをひらいた人びとは、その言葉にできない「悟りの境地」を言葉や書物でない方法で伝えることを求めた。
それが「禅」にあると言われています。
釈尊の教えは、八万四千も、あると言われています。その中でなるべく言葉や文字を使わずに、この「ハッ!」と気づいた目に見えない心を伝える方法はないか⁇
と、考えた末に生まれたのが禅なのです。
禅というと、足の痛みを我慢して座禅を組んで、少しでも動いたりすると「カーッ!」と平たい棒で肩あたりを叩かれるイメージがありますよね。
でも、僕の好きな禅は、そんな修業ではなく、何かに気づいた瞬間の「そうか!そうだったのか!!」と思った時の、何とも言われぬ開放感が好きなのです。
自分から去った恋人を恨んでいる女性がいた。自分を捨てた彼のことを許せなくて、毎月、彼女は自分を捨てた彼にイタズラ電話を繰り返していた。
カウンセラーから「あなたは、憎しみというデートを毎月、その彼としている訳だね」と指摘され、人生の大切な時間を、その許せない彼に、いまだに奪われているのか、と、悟った瞬間、 そんなハッと我に返る気づきが好きなのです。
そして、続けて「それも、あなたはマイナスの片思いを、大嫌いな彼と今後も続けていくんだ…」とカウンセラーに言われて、未来を明るく歩き出そうと決める瞬間が好きなのです。
ですから、禅寺に行かなくても、座禅を組まなくても、ブログとか本の中に、日常の一コマにも、禅のような「一瞬のハッ!」とする、悟りの境地はあるのです。
ただ、その気づきも一瞬だけで終わってしまって、また、同じような事に、心は “とらわれ” てしまい、また、悩み多き人生にとらわれるのが、僕のような一般人なのですが… σ^_^;
笑い話ではないが「悟るためには、何事にも『とらわれてはいけない』のよ、そう、何ごとも正解や、間違いと言ったことに、とらわれてはいけないのよ!そう、絶対に…そう、なのよ」と、とらわれてはいけない! と、人に語っていながら、気づかぬうちに、“とらわれては、いけない” ことに、“とらわれ” てしまっている人がいる。
「 あなたね、説教をしたからといって良いってわけではないのよ! 人の話をよく聴いて、相手の思いや、相手の状況をしっかりと把握しなくてはいけないでしょう……で、何よりも受容すること、次に……共感なのよ」と、相手に説教をして、相手の話をじっくり聴かない人もいる。
そうです、僕たちは気づいた瞬間から、今度は、気づいた者と、気づかない者とに分けて、そして、気づいた人たちの中でも、自分のほうが、より多く気づいている。ヤツは、まだ、気づきが未熟だ。と、お釈迦さまが戒めた、差別や慢心で人を見るのです。
悟りを目指す人たちでも、そうなのですから、本当の気づきは、やはり永遠に自分の中に「疑う」気持ちを、持たなければいけないようです。
「自分は本当に正しいのだろうか?」
「この戦争は、自分たちは間違っていないのか?」
「子どものために『よりレベルの高い学校』と、言うけれど、親である自分の世間体のためではないのか?」
「未来の幸せのために、ガムシャラに働いているけれども、自分は、今の子供たちの笑顔や、今の幸せを味わってはいないのではないか?」
悟りをひらくと、額(ひたい)の第三の目が開くと言うけれど、この第三の目は、自分をクールに見つめる目のようです。
僕たちは、人のことはよく見えるけど、自分のことは見えないらしい。
だから、自分は悟ったと思った瞬間に、僕たちは「自分は間違わない! 」と、思い始めます。その時が、一番、自分が見えなくなる瞬間なのでしょう。
ですから、何かの気づきを経典や本に残すと、必ず「これで解った!」と経典を読んだ者の中から、思い上がった人が出てきます。
だから、キリストも釈尊も本を残さなかったのです。
「え⁉ 聖書は!」と思われたかもしれません。でも、あのイエスのことをつづった新約聖書も、イエスの著作ではありません。ヨハネやパウロなどの、お弟子さんが書いたものです。
先に書いた仏教の八万四千の経典も「私はこのようにブッダさまから教わりました(如是我聞)」で始まるのです。
哲学者ソクラテスも、著作は残さなかった、書いたのは、すべて弟子だったプラトンです。
だから、わかった気になった時が、人は間違いが始まる時かもしれません。
ですから、禅では「悟った!」と弟子が言うと、師匠は「カーッ!バカ者」と叱るのです。
怪しい宗教家は、自分は「悟って いる!」と言いますよね。あれが、慢心なのです。だから、僕はそんな人には近づきたくはないのです。
へへへへぇ、それを僕は気づいているのです。スゴイでしょ、へェへへへへぇ
「カーッ! ノブユキ、慢心にとらわれよって!」(ー ー;)
反省…