反省…
2019/04/21
たくさんのお見舞いメッセージありがとうございました。あまりに優しい言葉に、僕は心が癒されました。
感謝です‼
僕は大丈夫です。
人は生きて行く中で、誰もが身体の痛み、心の痛みを持ちながら生きているものだとの思いから、前回のメールを書きましたから。
そして、その痛みにフォーカスして生きて行くのか、それを抱えながらも、人に対して、できる笑顔、穏やかな言葉や行動で「今」やれることにフォーカスを向けて生きて行くのかで、人生は違ってくるようです。
知り合いがくるたびに「痛い、痛い」と訴える人もいます。
でも、痛みを抱えながら、自分よりもさらに老いた高齢者への援助をしている老人もおられるのですから、頭が下がります。
人はどの部分にフォーカスを向けるかで人生は変わってきます。
ゲシュタルト心理学では、すべての怒りは「一人称に変えろ」と言われます。
あの人が「私を怒らせた」ではなく、私があの人の言動で「勝手に怒っている」に変えろと言うのです。
相手のせいにすると、相手が変わってくれないかぎり、自分の人生は楽しめなくなります。でも、自分の見方次第だ!(一人称)と思えば、自分が気にしなければ良いのです。
そう、相手の言動にこだわり続ける人と、石(不快な出来事)にぶつかった時の水の流れのように、流れを変え、方向を変えて「じゃ、さよなら」と気にしないで過ぎて行く人もいます。
でも、石の前でブツクサ言い続ける人がいます。 水や風のように生きたいですね‼
そうなのです。同じ職場生活でも楽しんで過ごしている人もいれば、いつも、職場の何かに怒っている人がいます。
もし、職場に問題があれば、職場全員がノイローゼにならなければなりません。でも、ノイローゼになる人と、ノイローゼにならない人がいます。なぜなら、職場にはステキな人もいれば、変わった人もいます。
それが現実原則です。
その集団の中で何にこだわり、何に対決するのかで、人生は変わってきます。だからこそ、職場全員がノイローゼにはならないのです。
同じ親に「早く帰って来なさい」と言われ「うるさい!」と受け取る人もいれば「親が自分を心配してくれているのね」と受け取る人もいます。
同じ言葉であっても受け取りかたは、人によって、これほど違うのです。
どこにフォーカスを当てるのかは、人それぞれなのです。
今回、お見舞や、ご心配してくれるメッセージの中で、お一人の人が「女性の生理と、男性の腰痛を一緒にしないでください。…男性には、女性に優しくなることはできません。
現に、衛藤信之先生も、女性の痛みがわかりもしないのにブログに「女性と男性」を比較して痛みという共通点のみを理由に「女性には注意」なんて書いている。安易に女性を馬鹿にしないでください!」と、お叱りのメールをいただきました。
まったくその通りです。
女性の生理と腰痛は違うものですよね。
チョットした雑談のつもりで言ったことでも、受け取り方やフォーカスによっては、身内で笑える雑談でも、読者によっては怒りに変わってしまうものです。
ブログを書く者にとって大切にしないといけない教訓をいただきました。
ありがとうございます。
多分、メンタルの受講生ではない方からの、お叱りのメールだったのかもしれません。
受講生なら、僕が女性を小馬鹿にしたことなどないことを知っているはずだし。
さらに僕をよく知っている人なら、「痛い」と僕らしくないことを口にしてしまったのを、僕が後悔してフォローのつもりで、心配する丸山先生に「こんなふざけた、会話ができるなら大丈夫だ、衛藤先生は」と思ってもらうために、ふざけて話した身内での内容を、ブログにも同じ心理で「挿入したのだなぁ」と、カウンセリングを勉強している受講生なら洞察できると確信しているからです。
でも、このブログは複数の3万人に近い人が見ているのです。気をつけなければなりません。
でも、しかし、このような事を書いてしまったら、中には「フランクな先生たちの会話も、楽しみにブログを、私たちは見ているのだから、そんなことを気にしないで書いてください」と、言われる受講生や読者が多いことも、僕は知っています。
ご安心ください。
もちろん、自由に書くつもりです。
なぜなら、前回のブログを書きながらも、実は「こう受け取る人もいるかもしれないなぁ」とも思って書いていましたから…(確信犯か)ツッコミ
でも、どこかで僕のアカンところですが、僕は前半に書いたように、その人のフォーカスの問題、人は千差万別だと思っています。
「体調が心配」に焦点が当たるのか、「間違った文章」に焦点が当たるのかは、その人のフォーカス、心のパターンが影響します。
もしかして「権威者に対して牙を向けなければ」の心のクセがあるのかもしれません。その人は、過去に権威者に対して苦労してこられた人なのかもしれません。
そこを知ってもらいたいのです。たくさんのブログを読んで全体像から判断することをしないで、何か人は心の中に怒り(フラストレーション)があって、何かの文章をキッカケに攻撃性が勢い出てしまう。
また「私は正義だわ!」の思いは勢い人を攻撃的にしてしまう。そのことは最近、数度にわたって戦争を題材に僕は書きました。
このように、誰かとぶつかってしまう関わりのパターンを交流分析では「さぁ、つかまえたぞ、この野郎ゲーム」と呼び ます。これが人生脚本になると、なぜか誰かとぶつかって会社に行けなくなったり、孤立してしまいます……
…いかん、いかん
これもカウンセラーの職業病ですね。
わかっているのです…謝れば流れることなのに…あ、あ、川のようになりたい(心から)…からんでいるのは僕ですね…反省。
でも「心の仕組みを、知ってもらいたい誰かに何かを伝えたい」と講師でありカウンセラーでもある、もう一人の僕がいるから、プラスとして講座が熱くなるのも事実ですが…
「もういいやん」と思う僕と「誰かに何かを学んでほしい」と思う僕が戦います。だから、腰が痛むのでしょうね…坂本龍馬も、腰痛ヘルニアになったとか「世界を背負うと大変じゃきね」それ今、関係ない話ですけど
ただ、正直に告白すると、どこで何を言われても「我ゆく道は、我のみぞ知る」と思っているヤンチャな僕のほうが、やっぱり強いのですね…
それで「おまえは反省しているのか⁈」(天の声)
「はい、少しは」
さらに反省…