戦争の中の日常。
2019/04/21
徐々にではなく、ある時、突然に戦争に…国民には、何の相談も説明もなく…子供には、何のことだかわからないままに…
どの戦争もそうですが、太平洋戦争も、誰しもが「自分たちは間違ってはいない」と、それぞれの正義で戦った戦争でした。
今、テレビで有名な司会者が、眉間にシワを寄せて「『遺憾だ』と日本政府は言うが、空虚に聞こえる。日本は『遺憾だ』の次に何をするんだ! 何も出来ないじゃないか!言葉ではダメだよ!」と、日本中の誰もが、この司会者のように怒り、臨戦態勢に入っていくのか…
戦争とは何か?
「今日もまた大豆ごはん。僕、大嫌いなのに」
「そんなぜいたくを言うものではありません。戦地の兵隊さんのことを想ったら。兵隊さんは泥水を飲んだり、草を食べたり苦労しているのだから。我慢して食べないと駄目でしょう」
「つまらんのう。つまらんのう」
私から叱られ、あなたは涙を浮かべてしかたなく食べましたね。
八月六日は登校日だったので箸をおくとすぐにランドセルを背負って家を出たのです。その姿があなたと、私との永久の別れになろうとは。
勝司ちゃん、あなたが生まれて二週間後に「支那事変」が始まり、そして八月六日の原爆から十日のちに終戦でした。
戦争の間に、あなたは産まれ生きていたのね。人間らしい楽しい生活も、平和も知らないままに。
あなたが、もの心ついた頃から、夜は燈火管制で暗闇の生活。食べ物は大豆ごはんやヌカのまじったおだんご。
あなたは大豆ごはんが大嫌いだった。
八月六日のその朝も、お母さんはしかたなく大豆ごはんを炊きました。
「嫌い」と言ったことで、あなたは、お母さんに叱られて、涙をいっぱい浮かべて食べましたね。そして学校へ行ったのね。ランドセルを背負って小さい背中で「行ってきます」と。
それが最後の言葉でした。
あなたはそのまま二度とお母さんのもとへは帰ってはこなかった。
あの時、なぜ叱ったのだろうと、戦争が終わっても、お母さんは心に残ってしかたがないの。あなたは、どこで死んだの。火に包まれながら「お母さん、お母さん」と泣き叫んだのではないかしら。全身に火傷をおいながら、苦しい息の下から「お母さん水を、お母さん水を」といいながら息絶えたのではないかしら。
どんな姿になってもいい、もう一度お母さんの胸へ帰ってきてちょうだい。 そうしたら、この胸にしっかり抱きしめて、そして真っ白いごはんを、お腹いっぱい食べさせてあげたいの。これがお母さんの切なる願いです。
この手記を書いた新谷 君江さんは、原爆の日に子供の勝司君を亡くされました。
家族の人を送り出す時には、どんな言いたいことがあってもぐっと心を押さえ「いってらっしゃい」と送り出してほしいと君江さんは伝えています。
「子供を叱って送り出したことは、生涯消すことができないと…」
また、長野の学校で教師をしていた人は、中国の山東省で捕虜の中国人に対して行なったことを告白しました。
4人の捕虜を新年兵として連行している時のこと。
捕虜をともない、部落に隣接した広い畑地に出ると、そこには、すでに高さ二メートルほどの四本の柱が立てられ、後ろにはそれぞれ深い穴が掘られていた。
この状況を見てとった4人の捕虜たちはハッと顔色を変え、口々に訴えた。「私たちは百姓です。八路軍ではありません。助けてください」
なかには、十五歳ほどの少年がいた。彼は私にすがりつくようにして言った。「私にはたった一人の母親しかいません。母親が私の帰りを待っています。私を家に帰してください」
彼は私に泣いて訴えた。私の良心に最後の望みを託して、必死に訴え続けたのだ。この少年の叫びに、確かに私の心は揺さぶられた。私も母一人を日本に残して中国に来たからだ。しかし、少年の願いを聞き入れるわけにはいかなかった。少年の願いを聞き入れるのは、戦時中には死を意味した。日本の軍隊では上官に歯向かうことは、天皇の命令にそむくことであり、命との引き換えでしか許されなかった。私は胸をえぐられる思いはしたものの、反射的にその願いを無視せざる得なかった。
そして「日本の軍隊機構ではしかたないのだ」と自分に言聞かせた。やがて彼らは、使役兵によって四本の柱に結わえつけられ、人間から「実的(生きた標的)」に変えられてしまった。
そして、初年兵は四列縦隊にならばされ、上官から「前方にいる者はすべて敵だ。必ず突き殺せ」との命令のもと、先頭の四人に対して、まず「出発!」の号令とともに半狂乱の新兵は短剣を構えて突進した。
恐怖でゆがんだ人間に向かって突進するのだから、向かう新年兵も目をつぶる、よろめいて倒れる者もいる。敵を前にして立ち止まってしまう者もいた。
「馬鹿野郎、敵だ、突くんだ!」という恐ろしい教官の罵声を浴びて、兵隊は我に返る。
「お国のため!」と後は、やみくもに短剣をつき出す。
「よし!」の許しが出るまで突かねばならない。そして、次の四人が出発する。事情はまったく同じ。
この地獄の刺殺訓練が終わった後、中国大陸の夏の真っ赤な夕日が、中国人の死体と、初年兵である若者の青ざめた顔を分けへだてなく照らしていた。
この日の夜、中隊は初年兵のために祝宴を開いた。先輩兵たちは「これでお前たちもやっと一人前の兵隊になれたなぁ。おめでとう!」と笑ったという…
このような異常な事態が、なにげない日常へと変わるという「戦争」
それが、戦争の持つ残忍性。
僕は人間の素晴らしさを知っている。
でも、人間が極限に追いやられた時の、狂気の心理も残念だけど知っています。
なぜなら、自分自身も環境の中では理性的な自分を保ちえないかもしれないから…
学生時代から負けず嫌い。スポーツなどは、誰よりも好戦的な、自分自身を誰よりも知っているから。
狂気が「誰かの為に・・・」にと、正当化された時の恐ろしさも知っています。
チームのため、家族のため、平和のため、祖国のため・・・そして、何よりも、スポーツと違って「戦争」にはルールがない。 興奮の中ではルールという、理性 は吹き飛ばされる。
「正義」の名のもとで、戦争は始まる。その時、人の中にすむ悪魔が目を覚ます。だから、イヤなのです。人の中にある悪魔を呼び覚まさせてしまう戦争という異常な状況が・・・・
動物の中でも、人間は危険な存在なのです。ライオンには自分が生きるための殺しは存在しても、立場の違いでの殺しは見られません。
でも、人間は肌の色や宗教が違う、自国の立場のために、直接会ったこともない誰かを憎み、殺そうとするのです。
人間は、自分の正しさの前には、人を殺す、という血にぬられた歴史があるのです。
歴史教育が議論になります。
どの国側から歴史を教えるよりも、人間は立場が変わると、殺しも、美化されるものだという人間の歴史を、次の世代に僕達は教えなければならない。
人は雰囲気や状況によっては「狂気の人」になる。
歴史は、日本の側からの視点で見れば「西洋列強国からアジアを守るために大東亜共栄圏を作る」正義の戦い(聖戦)であっても、他のアジアの国から見れば軍服を着て、自国に入りこみ、思いのままに振る舞えば、これは完全に侵略に映るのです。
それが、人間の歴史だと思うのです。
立場や国が違えば歴史はこんなに違って映るのです。
それぞれの違う立場から見た歴史観を教科書に載せるべきなのです。
南京虐殺、慰安婦問題があったか、なかったか、という事実よりも、立場が違えば、人はこれだけ、それぞれに歴史の事実が、自分たちの都合で解釈してしまうという事実です。
そして、それを未来の子供たちに真剣に考えさせ教える。自分たちは間違わない存在ではなく、間違いうる存在だということを…それが、真の歴史教育だと僕は信じます。
自国の立場だけ載せる教科書は、真なる歴史教育ではないのです。
教科書に、何を載せるか、載せないかの議論は、自国優位教育の論争です。
戦争前夜の大日本帝国教育も同じ過ちを犯しました。そして、自国の正当性だけを信じて、あの戦争に突入したのです。
今、運動会の練習などで子供達のはじける歓声が聞こえる季節になりました。やはり平和な時代は素晴らしい…
国民学校で砂場に座らされた子供達に、先生がバケツを持ってやってきた。バケツには掃除の時に使う“ぞうきん”が入っていました。
その女の子はお母さんが、きれいな布で作ってくれた、雑巾が自慢でした。他の子はボロボロ。戦時中は物がないから当然といえば当然なのです。
だから、彼女の自慢の母の愛情の雑巾でした。
先生は、砂の上にバケツを置いて、自分の雑巾をそれぞれ手に持てと命じました。彼女は自慢の雑巾だからうれしく、誇らしかった。
いったい何が始まるのかと不思議に思い話し合っている子供達に先生は叫びました。「うるさい!だまって、雑巾を持て!」そして、子供達に「雑巾を丸めて胸に両手を当てて、砂場をめがけて走れ」そして「砂場に一歩飛び込んだら、体を伏せろ!」と言ったのです。
それは子供達の「自決」(自殺)の訓練でした。子供たちの未来を育てる学校教育で、自決の教育!
持たされ丸められた、雑巾は“手榴弾”を想定したものでした。「顔も頭も砂の中に埋めるようにしろ!」と先生はさらに叫びます。その子は、砂に顔を埋める埋め方が浅かったために、砂場の横で見ていた先生がかけよって来て、はだしの足で女の子の頭を二度も、三度も踏みつけました…
お母さんの作ってくれた自慢の雑巾で、子供たちに死の訓練…狂気が日常化されることが、戦争の姿なのです。
僕は心より願います。
どの国の子供達も分けへだてなく幸せになる社会を…
そして、それを語れる真の大人でありたいと…。
周囲の雰囲気で流されて、自国の安全、自国の平和が、戦争への悪魔の招待状だということを…