僕たちは、いつ真なる大人になれるのか…
2019/04/21
まだ、この世界に星々が作られていた頃。
この宇宙には、たくさんのスピリット(精霊)が調和を保ちながら存在していました。
その中に、不安のスピリット(精霊)がいました。その淋しい霊は、いつも何かを疑っていました。疑いの思いから、この完璧な法則で創られた世界をも疑って見ていました。
すべてがうまくいく事など、あるはずがないと…この世界が友好的である、などと信じられず、何かきっと足りないものがあるはずだと信じていたのです。
この万物の学校は完璧です。創造主は、この世界で愛を学ばせるために、教材として、多くのスピリットを存在させました。
ですから、不安のスピリットが存在するのも、創造主の失敗ではないのです。教材なのです。人は誰もが疑うというエネルギーがあります。
不安のスピリットは、それの見本なのです。そう、人よりも多くの不安をもっていただけなのです。
不安感から妄想・疑惑というエネルギーで心の中がいっぱいになると、人は未来に対する恐怖に襲われます。嫉妬さえも、自分が完全であることを信じていないことからくる、未来の恐怖なのです。
ある日、不安のスピリットは、大蛇に化けて、インディアンの若い男性にささやきました「この世は完全ではない。悪があらゆるところに潜んでいる危険な場所なのだ」この話を大蛇から聞いた若い男は疑い始めました。
創造主は、間違いを犯したのかもしれない。でなければ、あんなことを言う不安のスピリットが創られることがないはずだから‼」
その時、若い男の中に完全に疑いが生じました。
彼は人びとに「創造主が、あんな不安のスピリットを創るという過ちを犯した。もう、信じられない。宇宙は完璧ではないのだ」と、言い始めたのです。
そして、それは恐ろしい伝染病のようにインディアン世界に広がりました。
不安のスピリットは喜びました。なぜなら、人びとに怖れられ、憎まれるようになって、やっぱり自分が伝えたことは、正しいと感じることができたのですから。
不安のスピリットがささやく「未来を疑う」ことを信じた人々によって、彼の言ったことが現実になりました。
やがて自分一人では一生使えきれない物を得て安心しようと思う気持ちが広がりました。
使えきれないほど貯め込んだり、盗んだり、ウソをついたり、殺したり、人びとは戦争を始めました。
人間はこうして隣人でさえ、互いに信じあえなくなり、愛し合うことをしなくなったので、心も身体も、病気になり始めました。
そのために聖なる人のところに、癒してもらおうと、多くの心が壊れた病人がやってきました。
聖なる人は、彼らをスエットロッジ(浄化の儀式)につれてゆき、彼らの中に入り込んだ「トゲ」を見つけ出したのです。
それは「天地万物は完璧ではない。人は隣人もすべて邪悪である。信じてはいけない」と、心の中から愛を奪ってしまう不安のスピリットからのささやきでした。
聖なる人は、言いました。
「それは知性から生まれた妄想にすぎない。しかし、人間の心の奥には、何が真実であり、誤りであるかをしっかりと知る力もある」と…
では、毒もった知性とは何か?
他の人や隣人は邪悪だと教え込まれる常識です。
真実の愛、貧しい人は不幸、勝ち組は幸せ、身勝手な国家、正義の国、許されざる民族、真実の歴史とは、背が低い、ガリガリだから、胸が大きいから、お尻が大きいから、肌の色が黄色、赤色、白色、黒色…あらゆることがらに、正解と間違いを分けること。
そして、他人は皆がワル賢く、ズルい存在なのだと。
インディアンは言います。
創造主(グレート・スピリット)は悪いものを何も創られないと。
人は生まれついて、愛し、愛され、知的で美しく、素晴らしい存在だ。
それが人間なのだ。
不信は、人の心に、いつでも忍び込みます。
子供の頃から、大人達の教育により頭に「自分の民族、国、コミュニティーのやり方が、どこよりも優れている」という考えを組み込まれていくのです。わが国は間違わないという自国中心的な考えを洗脳していくのです。
現代は、テレビや新聞、コメンテーターの言葉を通してささやかれています。
「なめられてはいけない。つけあがらせてはならない。やられるなら、やるしかない」
そのように不安のスピリットは、今も、人の心に不信感をささやいて誘っているようです。争いへの道を…
「制裁で、困るのは相手側だ」「国家・人としてのプライドを持て」という、過去の戦争前にも聞かされた甘い言葉で…
やがて、世界は不信の嵐が吹き荒れるのです…まるで伝染病のように、とても素早く。
人は、心が健康で幸せな時、安心して気分がいい時は、人や誰かを愛しています。なにより、世界の人々を信じています。
それが本当の姿です。
イヤな気分の時、何かを恐れている時には心を閉じ、怒りのスープをかき回しています。そして、分かち合うよりも、攻撃することを考えるのです。
そして、それは自分たちの未来に対する不安と恐れからくるのです。
聖なる人は言いました「愛の道を行きなさい」それが、真実の道だと。
心を喜ばせ、愛と美で心をみたしなさい。怒りで心を満たしてはいけない。誰かを攻撃したり、恐れたり、恐れられる道を行くことは、その人が「天地万物の道」を忘れてしまった印です。怒りや恐れは、愛が自分から消えてきていることを教えてくれる証明になるのです。美しさから遠ざかって行きます。
不安のスピリットも悪ではなく、人間が天地万物の法則を学ぶためにあるのだと言うこと。
やがて聖なる人の癒しにより、ふたたびインディアンの人びとは、自分や他の人が、善なる命そのものであり、自分と同じ大切な命なのだと信じるようにな りました。そして、聖なる人は「自分がいたのでは彼らは、みずからの知恵で、創造主の心を学べない」とインディアンの国から旅立ちました。調和がインディアンの世界に戻ったのです。
そして、不安のスピリットも、インディアンの世界には住めなくなり、 彼の中にある不安や不信に同調する人を探して、インディアンの村からやがて逃げ出しました。
やがて武器を片手にインディアンの大地に「土地を所有すること、分けるのが当たり前だ」と言う人達の中に忍び込み、現れるまでは…
そして、聖なる人は旅立つ前に、インディアンの人びとに、聖なる教え(オリジナル・インストラクション)の予言を残して空に消えて行きました。
予言には「やがて、不安のスピリットによる疑いのささやきが、いつの日にか、世界に広がり、そのために病気、戦争、飢えが地球を襲うだろう。ただ、聖なる道を覚えている人びとは、子供たちを救い出し、地球も癒すことができる。
多くの人びとが道に迷うが、世界の破壊される前に、その教えを未来の人びとが思い出すことができるなら、きっと聖なる道に、人びとは帰り、愛で大地は癒される。
『天地万物のこの世界』は、聖なる教えを学ぶための学校であると、思い出した人びとが、やがて万物は調和した世界であり、人びとは愛と美の喜びへの道を目指すように。それは、未来の人びとの行動が決めるのだと…』
この万物の教えを指し示す予言のストーリーを、聖なる人は、岩に刻み込みました。
そこには、二人の人が描かれています。
ひとりは、聖なる道の方向に、耳を傾けて、帰って行く姿をしており、もう一人は、落ちようとする雷によって象徴される破壊の道へと、さらに歩もうとしています。そして、世界は崩壊します。
今、僕たちの世界は、疑いと、怒りと、不信感に満ちています。
人も国も互いに、信じることができたなら。
また、すべてをゆずりあって、仲良くすることを学べたなら、世界は愛を学ぶ場所として存続するのでしょう。
ホピの予言、マヤの予言、黙示録の予言、そして、我々の日常も、人として何を学ぶべきか考えないといけないと教えてくれています。
海から優しく突き出た、憩いのアイランド(島)が、愛ランドとして、仲良く、信じあえる場所になることを祈ります。
竹島も、尖閣諸島も、憎しみの象徴と戦いのノロシに、ならなければと心から願います。
アメ玉を取り合っている子供のように、大人たちが小さな島で目くじらをたてています。
僕たちは、いつになれば子供たちが憧れる、ステキな大人になれるのだろうか、人も国も…
《シアトル酋長の言葉より》
どうして、あなた達はこの大地をオレのものと、私のものと、分けることができると言うのか?