ワガママな時代…
2019/04/21
メンタルの大阪の教室から離れていない場所で通り魔殺人が起こった…
こんな事件が起こるたびに深いため息と共に心も体も虚脱感を感じてしまう。
そして、突然命を奪われた被害者の悲しみは、もちろんのこと、遺族になってしまった被害者のご家族の無念さを想う。
生きることは楽しいだけとは、僕も言わない。
恐ろしく孤独に感じることや、絶望に見舞われることもあるだろう。
でも、人はそんな苦しみの中で這いつくばって生きているのが基本。
自分の思うようにならない現実に耐えられない人が増えている。
これはフラストレーショントレランス(不満に耐える能力)の低下が進んでいるのだと思う。
現代は、夜も遅くまでコンビニが開いています。「夜はお店が閉まっているから我慢しなさい!」と言う親の説得は通らない。
三食は誰もが欠かさず食べられます。それは、昔には殿様しか出来なかった贅沢な生活。
僕は毎週、博多、大阪、名古屋、東京の教室で話しています。
昔なら何ヶ月もかかって歩いた場所に、僕は数時間後には到達して話しているのです。
文明は素晴らしい恩恵をもたらしたけれど、失われることもあるのです。
それは「耐える能力」の低下です。
ここ数十年でも、時代は変わりました。
僕の時代には、恋人の家に電話するにも、彼女のお父さんという関所があった。今は携帯電話で何時間でもダイレクトで恋人と話せます。
昔は学校の友達と、家の前でサヨナラしたら、世代の違う親や祖父母世代と望む望まずに関わらず、茶の間で会話をしなければならなかった。
そのような中で敬語を自動的にマスターしたように思う。今は親と友達のような会話がまかり通る。
遊びの世界でも、年長の子供達との広場で、集団の中での序列を教え込まれたように思う。今はコンピューターの中で、いつでも自分自身が主人公になり、我慢する必要はない。
その中で身につくのは、ワガママな自己顕示欲なのかもしれません。
そして、親たち世代も「自分の子供さえよければ」とでも言うように、学校に無理難題を押し付けワガママに、モンスター化してゆく。
東北地方の瓦礫を、自分の街だけには持ち込むなと、それぞれの地域でキャンペーンがはられ、誰もが「自分さえよければ!」と言う時代になりつつあるように思える。
それに誰もが不思議に感じない時代…
集団にズレが生じると、その中にいる個人もズレてゆく。「狂気の中では、狂気の思考は正常になる」とは心理学の基本。
以前に岐阜の長良川国際会議場で講演会があった時に、山の上に岐阜城があった。
昔の人は何十kgの重い甲冑を身につけ、山の上まで行軍したのだと考えると、昔の日本人の忍耐とたくましさに度肝を抜かれました。
現代の若者に、それが出来るのは一握りのアスリートだけだろう。
今、尖閣諸島の問題で、日本の東京都知事は攻撃性を全面に出している。
もし、最悪のシナリオだが、中国と日本が戦争をするような事態が起これば、日本は勝てないと思う。
今の日本男子では残念ながら戦えない。
軍事力で上回ると思っている人も多いようだが、最新鋭の武器でも、それを使い切るマンパワーが低下していれば、敗北するのは戦争の歴史の事例を知れば歴然です。
…僕の講座のように話はそれましたが(クセでf^_^;)、
このような通り魔事件は、やはり子供の時から、思うようにならないコトに出くわすたびに、我慢したり、耐え忍ぶことを自ら鍛えないで、自分の思うようにならないことに感情を爆発させ、周囲に怒りをブツけることで生きてきた人々の代表例なのだと思えてならないのです。
一言言わせていただければ、
「甘えるな!!」
なのである。