三丁目の夕日…
2019/04/21
とっても感動して泣けました。
今、街の高級なショップでは、アジアの人々を見かけることが多くなりました。
今は中国も、韓国も、シンガポールにしても、他のアジア勢がとても元気です。
それは素晴らしいことでもあります。なぜなら、その栄枯盛衰から色々と学ぶことが多いからです。
それを嫉妬し、批判するなら日本は哀れな国になり下がってしまいます。
話を映画に戻します…
映画は、一番日本が元気で、必ず未来はステキになると、誰もが信じられた頃が舞台です
そして、「朝日」ではなく、「夕日」なのが、なんだかとても心地よくて僕は好きです。
どこの家からも夕げの仕度で、美味しい香りが路地に流れ、町には明かりが灯り、茶の間からは笑い声が聞こえて来そうな時間帯…
もちろん、当時でも孤独な人もいたでしょうが、見ず知らず誰かが、そっと隣に座って「何とかなるさ…」と声をかけてくれそうな、そんな、誰かにお節介だった時代がそこにはありました。
現代の日本は、政治もマスメディアのニュースも、したり顔で誰かの批判ばかりをしています。
他人をサポートするのではなく、行動している人の落ち度だけを攻撃しケチをつけ、何らかの行動した人だけがバカをみる現代社会。そして、何も決められないまま時間だけが浪費する今日この頃…
でも、映画に登場する人々は一生懸命だし、また、一生懸命に生きている誰かに対しても、良い意味で「おせっかい」なのです。
人が幸せになることに、お節介な人々…
そんなムードが、あの頃の日本には存在したのではないかと思える映画でした。
映画の中で「誰もが幸せを求めて、上へ上へと向かおうとする時代に、それだけではない、幸せもあるのではないでしょうか?」と三浦友和が演じる町医者が語ります…
「幸せってなんなのでしょうね?」
そして、登場人物が、それぞれに何気ない日常のシーンの中で、自分なりの「幸せ」を素直に見つめて語っています。
とても、優しい気持ちになる映画でした。
ラストで、産まれたばかりの赤ちゃんに夕日を見せるシーンがあります。
そうです。誰もが願うのは、子供たちが安心して夕日を見られる時代がずーッと続くこと…
以前にも書きましが、
現代人の神だのみは、自分が幸せになることを願います。
僕が知るネイティブ・アメリカン(インディアン)の人々は「セブンス・ジェネレーション」(七世代先)の子供たちの未来を祈ります。
「今日と同じように素晴らしい日が続く」ことを神に祈ります。
そして、彼らの「素晴らしい日」とは、笑ったり、泣いたり、挫折したり、そこから何かを学んだり、そんな中にこそ、幸せがあると彼らは考えています。
なぜなら、黒がないと、白の存在がわかりません。暗やみがなければ、明かりの必要性は理解できない。
だから、悲しみがあり、そこを抜けてこそ喜びの意味があるのです。
別れは、出会いの意味を深め、死は命の輝きを教えてくれます…
だから、いろいろな人生のドラマには、悲しみと喜びはセットなのです。
だからこそ、ただ幸せは、単体だけでは存在しえない…
それを知っているから、ネイティブ・アメリカンの人々が「今日と同じ素晴らしい日」と祈るのは、ただただ成功するだけの日々でも、悲しみを知らない混じりっ気のない幸せでもないのです。
そんな軽い幸せは、いつまでも続かないからです。
悲喜こもごもに混ざった、学びの多い素晴らしい日々が続くことを、彼らは未来の子供たちのために願うのです。
中米のマヤの人たちの暦によると、紀元前3113年に始まった「偉大な周期」が2012年の今年に終わると言われています。
さて、未来はどうなるにしても、新しい周期が存在し「美しい夕日が見れる日常が続けばいいのに…」と思って、僕は映画館を後にしました。