一番、怖い人たち…
2019/04/21
イジメている子供は、自分はイジメている自覚がない。
相手がみんなの足を引っ張るからとか…授業の時に先生の質問に答えなくて先生を困らせたからとか…正義の側につくから自分の中でイジメが正当化される。
ホームレスの老人を襲った若者が、警察に捕まった時にも「公園が汚くなるから、掃除してあげたのに…」と語った。叩かれ、攻撃された人の気持ちには無関心だったのだ。
正義の側に立った人は、相手の気持ちに対して無慈悲になる。「正しいことをしている」との思いが、自分の攻撃性を見えなくするのだ。
だから、戦争が止まらないのは「自分が正義だ」と各陣営が思っているから、互いにそれぞれが残酷な行為にまでエスカレートする。
「汝、裁くなかれ!」と聖書に書いています。
ある不貞を働いた女性が村人たちに連行され、イエス・キリストの前に引き出された。当時は、不貞は死罪でした。それも、村人の一人ひとりに石で打ち殺される重刑だった。
村人達が石を持ち、その女性に詰め寄ろうとする、その瞬間にイエスは沈黙を破って口を開いた。
「今まで一度も罪を犯したことがない者から、この女性に石をぶつけなさい」と…
そして、村人は一人ひとり石を捨てて、集会場から出て行った。
ただ、今の時代はこの聖書のようにはならないのかもしれない。過去に自分も罪を犯したことがあっても、石を投げる人がいそうな、ご時世である。
そういう人ほど、自分は正義の人になりきって自分に酔いしれる。そして、愛を学ぶと言い放ち、静かに沈黙できない。
僕が一番心から許せないのは、自分を正義の側に置いて人を裁く人です。
自分も過去に罪を犯していても、自分が今は罪を犯していないと、すました顔で、正義の権化になる人々です。
そういう人ほど、人を裁くことに酔いしれる。
「汝、裁くなかれ…」その後に続くのは、「それは、やがて自分が裁かれないためである」
そうなのです、人を攻撃する時には、自分だって完璧ではないと思っている人は、人を正義の刃で切りつけません。それが、愛を学ぶということです。
僕は「自分は完璧でない」とイヤと言うほど知っているから「良い」とか「悪い」とかで、他人をジャッジできない。
だから、人のことに対しては静かに
沈黙する。
インディアンは言う…静けさは心に何もないわけではない。人には、いろいろな都合があると言うことがわかっているから静かに黙ることが大切なのだ。
これを「知恵の沈黙」と呼ぶ。正義を声高に叫ぶ人は知恵者じゃないと…人生の深みを知るものは沈黙の深さを知る。
僕も、未熟な時には正義、仲間意識、愛と叫んでいた。それが、言われた人には攻撃、分裂、悲しみになることがあるとも気づかずに…
人を裁くことは、止められない病であり媚薬です。
タバコを吸っていた人の中には、タバコを止めた瞬間に、喫煙者には冷たい態度をとる人がいます。抜けたものが勝ちの心理からです。
過去に水商売で夜に働いていた女性の中には、自分が夜の商売から足を洗うと、水商売の女性を侮辱する人がいます。私は今は日の当たる生活だからの論理です。
過去に人を裏切った人が、自分が裏切られた時には、寛大になるなら納得できます。でも、逆に自分が裏切られた時には、スゴい剣幕で攻撃に出る人がいます。
自分のことは棚にあげてとは、このことです。
だから、自分がイラダチから誰かを攻撃しているという自覚がある人のほうが、僕にはまだ共感ができる。イラダツことは、きっと誰にでもあると思うから。自覚生があるだけマシだから。
でも、人を攻撃しながら、自分の正義に酔いしれる人を、僕は一番恐ろしいと思う…魔女裁判、戦争はそういう人達の正義で始まった。
「僕は何も悪くない。正しいことをしただけだから…」と言い切って、老人を撲殺した少年達は、今では亡くなった老人の悲しみや恐怖は、想像できるようになったのだろうか…