義なる人びと。
2019/04/21
今日は義理の父の墓参りに行きました。明日が命日だから••••
三年くらいしか経っていないと思っていたら、もうあれから五年も経ったのですね。
娘二人の幸せだけを楽しみに、定年まで勤め上げ、ゆっくりされたらと僕の忠告に「僕のような人間は、働かなきゃあかんのや」と朝一番の電車に乗ってビルの掃除の仕事に病気で入院するギリギリまで出かけていましたね。
掃除の仲間から「もう少し手を抜いてくれ。あまりキレイにやられると、他のメンバーの持ち場とのバランスが悪いから」と忠告されて悩んでいましたね。
真面目なあなたにとって、手を抜くことが、なによりも一番むずかしい忠告だったのだから•••••
定年まで、勤め上げた会社も、真面目過ぎるがゆえに、二代目の息子さんに経営が変わってからは、利益至上主義のやり方と、今までの大切なお客様との信頼関係の板ばさみになったままの泣く泣くの退職でしたね。
でも、あなたは亡くなるまで、自宅に「お世話になった人やから」と先代の社長の写真を置いて、日々、水を欠かすことがなかった後ろ姿に、僕は頭が下がりました。
近所の散髪屋さんがあなたの顔を剃っている時に「お父さん食事どうする!」の理髪店の家の中からの声で「家族で食べるのが大切だから」とシェイビングクリームを顔に塗られたまま、店主が食事を終わるまで待っていた、あなた••••
孫の学校の父兄合同の掃除の時には、イの一番にかけつけて、まだ若い親たちが嫌がる一番大変なところを「そこはワシがやります」と笑って引き受けていた、頼もしい、おじいちゃん。
僕の忘れ物を職場まで40分もかけて届けてくれた、義理の父。
僕も将来、娘の夫のために「困るだろうから」と、嫌味なことも言わないで笑って届けることはできるのだろうか??
感謝の言葉も期待しないで••••
僕が家族を残して、一年間もアメリカ・インディアンの地に旅立つ時も「僕がいるから孫たちのことは安心して勉強をしてくればいい」と言われた、あなた。
そして、いつも君は「偉いよなぁ」と、僕の活動を応援してくれた人••••
妬み、競争、誤魔化し、戦いが似合わなかった、あなたの言われた「偉い」の意味に、僕は僕自身に今でも違和感を覚える日々です。
決して僕は、あの頃から偉くなどはなく、そして今もまだ自分の好きなように生きているだけなのに••••
成功とは何かを考える時に、いつも、あなたを思います。
多くの成功者に、お会いする機会に恵まれるけれど、その成功者の中に、あなたのような人には、あまり出会わなくて••••
成功者と成幸者とは違うのですね。
ユダヤの聖典『タルムード』に、この世界の存続は、わずかに生きている義なる人によって世界は支えられていると書かれていました。
そして、その義なる清らかな生活は、その人に会ったことで、人は人を信じられ、この世界を好きになるような存在だと。
その模範的な生きざまは、自分は偉いとの自覚性がまったくなく、人しれず誰かの幸せだけを思い、陰の目立たないところで誰かを支える存在だそうです。
そして、その小さな地味な生活の灯火が、多くの人に計り知れない影響を連鎖的に与え、世界を守っていると••••
「愛の火付け役」の存在は、ますます少数になるけれど、確実に人の心に火を灯し、多くの愛を呼び覚ましていくと信じています。
なによりも興味深いのは、この世界を支える調和的存続である聖なる人々は、自分は「義人である」との意識はまったくなく、まさに無意識的な愛の体現者だと書かれていました。
自分が義人だと心によぎった瞬間に、義人からは「引退させられる」と言うのです•••••
自分は聖なる人だと意識した瞬間に
「義人」が「偽人」になってしまう。
だから、使命感だとか、ボランティア精神というような自我意識からも切り離され、聖なる義なる行為は何よりも自己超越的な無意識な行為なのです。
その義人の日々の清らかな日常が、この世界を存在させる目的(愛)の表現者(出口)であり、自己顕示の意識が作り出した正義感や使命感は、この世界を存在させるエネルギーを遮断させ、それを地上に表現する経路としての義なる人の役割が、間違った方向(出口)へと流れ出す•••(聖典より)
だから、この世界を支える義なる人の活動は「誰かのタメに!」と叫ぶことではなく、粛々(しゅくしゅく)と自分の目の前の人を助ける日々の生活なのです。
ですから、義なる人とは、僕のように先生と呼ばれる人では当然ありません。また、政治家や、有名な芸能人でもないのです。
もし、読者の中でボランティアとして活動した経験があり、このブログを読んで少しでもイラッとした人は、その正義の意識こそが意識的がゆえに、自己を超越できていない証拠なのです。
この世を存続させる人々のその清らかな生活は、人知れず地味な場所で輝いているのだそうです。
だから、先の『タルムード』には「この数少ない義なる存在が生きている限り、神はこの世界を滅ぼさないでいるのだと••••」と書かれていました。
本当の義人なる生き方とは、手が土にまみれながら畑を耕していたり、職人として手にケガなどしながらも家族のために働く人。子供に憎まれ愚痴を言われながら、毎日の変わらない生活をこなしている人びとなのです。
そのように、誰も見向きもしないで汗にまみれた、油のシミだらけのドロドロの作業服が支える家族の生活の中に「義なる存在」の意図が隠れているのです。
勝ち組とは? 負け組とは?
キリスト教の聖書に書かれていました。
天の国は、狭き道を通れ!
••••••たくさんの人が通る広き道を行くなと••••
多くの人が目指すところに幸せはないのかもしれません。
幸せを求めると、幸せは逃げてゆく•••
だから、イバラの道(苦しい仕事、嫌な人と出会う、悲しい時に笑う)を今日もバカにしないで、くさらないで歩いて行きましょう。
決して、僕は逆立ちしたって『タルムード』に書かれている義なる存在にはなれないけれど•••••
でも、そのように本当に目立たないでガンバっている人びとが、勝ち組と言われる社会の構築のために、僕はこれからも走り続けようと強く思えた「義なる人」の墓参りでした••••