集団心理と「大人の節度」
いつの頃から「忖度」という言葉が使われるようになったのだろう。その前は「大人の理由」が流行っていました。日本人は昔から「本音」と「建前」を使い分けると言われています。
それが、ここに来てさらに強まったように思います。
ディレクターの「忖度」で仕込まれた飲み会。
視聴率の「忖度」でトラブルを知りながら使い続けたMC役。
大衆の怒りの動きに「忖度」でCMを打ち切る広告主。
エンターテイナーを楽しんでいた者が、今度は手のひらを返したように怒り側に回る。これも集団に迎合する「忖度」が働いているのではないでしょうか。
誰もが大衆の思考の行方を気にしています。
兵庫県知事の「パワハラ問題」で不信任案決議が86人が全員一致で可決された時に感じた違和感。「全員一致なんだ。一人も味方になる人がいなかったの?…そんなに嫌われていたの?」
ところが、元知事は出直し選挙で返り咲き、兵庫県庁舎に戻った瞬間、県庁職員から拍手で迎えられる元知事。ここにも集団に迎合する「忖度」が働いていたの?
ここに書かれた誰かを責めたいわけではありません。集団に流されやすい現代人の心理が気になるのです。
僕も含め人間は誰もが、まだらな存在だと思っています。
現代人は、ある時は話題になっている芸能人の行為を「神対応」と称賛し、次の瞬間には「人間的に許せない」と怒りの矛先を向ける。それも誰かに与えられた情報だけで、感情が右往左往する現代社会。
福沢諭吉が「学問のすゝめ」で「およそ人間に不徳の箇条多しといへども、その交際に害あるものは怨望より大なるはなし」と戒めています。
「人は誰もが良いところも悪いところもある存在です。自分の人生が面白くないからと、誰かを攻撃しても何の得もありません。その時間は、自分自身が伸びない無駄な時間です。また、社会にとっても損でしかありません。それよりも、自分が少しでも良くなっていくことに時間もエネルギーも使いましょう」と…。
不倫をした女性には石を投げて町から悪を取り除くというのがユダヤの律法でした。不倫をした女性に町の人々が石を投げようとした、その時イエスは
「あなたたちの中で人生で一度も過ちを犯したことがない人がいますか?その人が石を投げればよい」と叫びました。
すると誰もが石を置いて広場から立ち去りました。
YouTuberであれ、テレビのコメンテーターであれ、集団リンチに馳せ参じていくのは、僕は不健全に感じています。
リンチの対象が罪人だとハッキリしている場合でも、自分に関係ないことがらについて集団リンチに加担するようなことは「大人の節度」として避けるべきだと思っています。
彼ら芸能人にとって引退することは命を絶つのと同じ、彼が本当に命を絶たなくてよかったと僕は思っています。
そうなってしまうと被害者もテレビ局も広告主も、誰もが救われないから…
皆さんはどう思われますか?
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心理カウンセラー衛藤信之
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